夫の会社の掃除から、自己犠牲をしてきた自分のパターンに気づく。
昨日は雨の中、夫が会社に用事があり手伝ってと言われ、たまには私の気分転換に都内に出るのもいいかと、一緒に行きました。
手伝い用事はすぐに終わりましたが、会社に着いたら、会社が乱雑で汚れていました。
ゴミ箱のゴミはいっぱい、トイレが黒ずみあちこち汚れ、テーブル、机の上の汚れ、ゴミ、それらが気になる私は、いつのまにか掃除に精を出していました。
夫に「トイレのサンポールを買ってきて。」と頼んだあと、
「こんなに汚さなければ、普段からちょっとやっていれば強い洗剤なんか本来使わないで済むのに。」
「私が掃除しない限り、女子トイレは結局何もやっていないんだな。」
などがっかりした残念な気持ちが私の心に広がっていました。
私は以前夫の会社に行っていましたが、今、夫の会社にはほとんど行かなくなっていたので、
帰ってきた夫に私が、
「定期的に掃除だけでもしにこようか?」
というと、厳しい顔をした夫が、
「うちは掃除の人を入れていないから、掃除を各自してほしい、といくら言ってもやっていない。私がトイレ掃除していたって気にしていない。あなたがこなきゃ会社がきれいにならないのじゃ困るから、ルール決めをちゃんとする。あなたがいたら、あなたがやればいいと余計になってしまう。」と言いました。
あっ!と気づきました。
私は夫の会社だけでなく、どんな職場にいても、いろいろ気になる人、気づいてしまう人がやることになるのは仕方がない、と、誰がやってもいい仕事ほど、黙ってやらざるを得ない、とやってきていました。
でも、喜んでやっているのではなく、私はこういう役回りが多いんだよな、と心の中には不満がありました。
が、私は小さな頃から親の顔色を見て、親から見捨てられないように、愛されるように、無意識に親を喜ばせる「いい子」をやっていました。
内面は本当は不満を溜めていますから、いつも身体には体調不良があり生きづらく、「波風立てない、親や先生にとっては助かるいい子だけれど、元気ではない子」でした。
自己犠牲的な生き方になっている、と薄々気づいていても、気づけば人の世話をしている、というところがありました。
そうだ!本当に私は周りの人に声を上げる、「これは問題だから、こうしよう!」ということはなく、自分が黙ってやってしまえばいい、と何でもやってきて、でも、私の本音は満たされてはいない、何で私はいつも何か満たされないんだろう?と思っていました。
そうして、満たされていない自分を責め、どうしてもっと言いたいことややりたいことができないんだろう?と自分自身にジレンマを感じていました。
が、夫が、これはみんなの問題だから、あなたがやらなくていい、と言ったとき、
「あっ、私はこうやって自分以外の問題でも、勝手に自己犠牲的に自分が処理して、勝手に何か満たされない思いになっていたんだ」と気づきました。
誰にも強制されていないのに、自ら自己犠牲をしている私。
昨日はそんなことをはっきり感じた日でした。
また、それとは別に私は「奇跡のコース」という学びをしているので、神さまが私を遣わせてくれるところが最善の道という感覚も持っています。
私の意志(自我)より、聖霊に委ねる生活をしていると、今日ここに私が遣わされたのは、私が会社に行くことで会社がきれいになること、私が自己犠牲的な生き方をしていることに具体的に気づくためだったのか、とも思います。
私は自分の内側のパターンに気づいたことで、被害者意識を強めずに済み、さらに夫の言葉で癒されていました。
夫は無意識でしょうが、私の犠牲的なやり方を止めてくれていました。
自己犠牲からではなく、心から神さまに仕えられる喜びで動ければ、私の満たされない、はいずれ消えていくのだろう、とも確信しています。
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