“検索”は人道的な行為か?あるいは終わらない“タグ”の時代
ご自由にお書きください?メディア・媒体といった類は大衆迎合のせざるを得ない力学に支配されている。栄枯盛衰というのは常にある。
検索結果にゴミが多いとか広告が多いとかいう話があるが、では一方出版という業界がゴミを出していなかったのかといえば、そうではないだろう。新聞にしても雑誌にしてもそうだ。
「いいね」の終わり
そもそもPageRankアルゴリズムが発明されたあたりで、いいねというシステムがいかに死んでいるかは生まれる前からラリーペイジは分かっていただろう。一元的な評価では正しく正しさを評価できないとの考えから、PageRankは生み出されて今なおアルゴリズムアップデートは続いているという。ちなみに余談だがアルゴリズムアップデートとやらはやっていようがいまいが結果の変化のみが観測されるので、もはやおとぎ話といってもおかしくない。
レビューという仕組みは絶対に永遠でないことは分かっていることだ。占いと同じで、信じたいものをみんなが見るための装置でしかない。
「タグ」が終わらない
いったい#タグという仕組みはいつから発生したのか、今のところ私には定かではない。しかし最近ではない、感覚としてはいわゆるディレクトリ型検索エンジンの時代にその片鱗を垣間見ていたと思う。MTが世界にblogを普及させたころに同時に広がったのだろうか?おそらくブログシステムとともにあったはずではある。
タグが良く機能するのはその評価がおおむね並列についていくことではないか。星というシステムでは重みが生まれるが、タグでは生まれない。「#おいしい」と「#おいしくない」がそのまま存在する。☆5と☆1で平均すると☆3というということではない。星と違って感想も説明すべてタグには含まれるのが特徴的だ。「#人類には早すぎる」などはもはや意味があって意味がないのだが、とてもよくできている。
アルゴリズムに負けるのか
SEOというのがある。これは検索エンジン上でより多くの人に見つけてもらいたい人々にはとても魅力的な施策だ。ところが面白いのはこのSEOにはおよそ正解というのが無い。勉強をすれば試験に受かるというのとは違う、まったくの正解が示されないのだ。
さてこれはつまり、本来は世界の情報を整理しようとしていたアルゴリズムの側に、人間の側がその行動をフィットさせていこうとしているということだ。そしてそもそも、Googleは検索を人間がしなければ答えを返さないわけだった、それによって検索する能力というのもどうやら人によりさまざまのようで、なかなかどうして難しい。
PageRankはいわゆる「いいね」型の人力reviewシステムをより高度化してというか人間的な愚かな部分を排除したものとして始まったと考える。しかしその進歩の中で高度な検索テクニックを要求する事態になってしまった。そしてSEOと称して沸き起こるいたちごっこ。これらにい対する答えの一つはおそらくGoogle nowやGoogle Discoverになるのだろう。
ただこの辺は結局アルゴリズムによる支配そのものだ。しかるべき構造化を保ってしかるべき量をこなしているとアルゴリズムにフィットしてしまう。これに対局しているのはやはり#タグという仕組みであるなと感じる。別に効率的ではないだろうが、とても感情に沿う気はする。足らないし、見落とすだろう、しかしどのみちすべてを見切ることはできないのだ。
タイムラインというフローに期待するものあるいはテレビのそれ
Netfilixは最高だ、Amazonは便利だ、ところがその整理整頓されているもの、おおむねコントロールできるという環境ばかりが豊かさをくれるわけではない。金曜ロードショーで放送されたからこその一体感。選択的ではないタイムラインに訪れるセレンディピティが、この先も得られますように。
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