How to Do It なんて無い
ブログを書くネタをどうやって編み出すかという知見が上記の記事に書かれている。全体を通してはもちろんタメになるのだが、いかんせん英語圏に向けた内容なので、どうにもちぐはぐな感じは否めないと感じていたのだがうまく表現できずにしばらくモヤモヤしていた。
検索のコツと日本語と
検索にはコツがあると言われている。それはYahooが提供していたディレクトリ型からGoogleが提供する自然言語処理的な方法に切り替わったときに生まれだしたコツ。検索ができる人とできない人あるいは得意では無い人がいると感じているが、あまりその理由に思い当たることはなかった。最近の違和感にぶちあたるまでそこまで意識していなかったことはさらにあり、Googleはなにせアメリカで生まれており、今更だけれど文法自体からして日本語とは違うお国である。
SEOというテクニック
Googleが台頭し自然言語処理による検索エンジンというのが広まるとほどなくしてSEOが生まれた。
当時のSEOはスパムの類と同等だったとする向きが強いだろう。当のGoogleもその状態をよしとせず、アルゴリズムを更新し続けている。このアルゴリズム更新の中身は当然のように不明確である。そのため、Googleはもはやそんな風に考えていないかもしれないのだがSEO界隈としては想定するアルゴリズムというのが出来上がることになる。
この辺の話も、まあ確かに稼いでいるアフィリエイターたちの話っぷりをみているとある程度はそうなのだろうと思うむきもある。しかし面白い話というか皮肉な話だが仕事で言われて作るいい加減なコンテンツに比べて、稼がなければと必死につくるコンテンツのどちらが熱量のこもったものだろうか?必然後者であり、アルゴリズムが云々ということ以前の差があるのは実際のところ明白である。
日本語とテクニックとロジックと
文章を書く訓練というのを受けていないだが、先日とあるライター講座で聞いてきましたという内容をさらに伝え聞いたのだが、読ませる文章の一つは「読み手を意識する」だという。このよく聞く話はTwitterだと強くその傾向が出ているなと感じる。なにせもともとといえば「つぶやく」サービスであり、どちらかというと独り言、内省的な傾向が強かった。「いまどうしてる?」という問いかけがボックスに書かれていたのだから、一応は今もそうだと思うのだが。ところがやはり、今となっては発信者と受信者に大きく分かれているサービスである。よくみる発信者のそれはやはり読者に向けた、発信であることが多いと感じる。さながらみんなレポーターである。
そして私はどちらかというとその傾向が嫌だ。なぜ嫌なのと考えると、この場合の読者というのは驚くほど匿名的な存在で、突然実体のない大勢に自分がなってしまうような感覚になるからかもしれない。テレビやラジオといった媒体を見聞きしているときは、はなから双方向性やインタラクティブなことはなく、もともとその他大勢の自分であるとわかっている。しかしどうだ、インターネットであり、よもやTwitterというのは個を持った状況で相手と繋がっていることができるものだ。いわばそのpeer-to-peerを自在なものにしたところにインターネットのすばらしさの一部がそこにあったと私は感じていた。だから、嫌だ。その他大勢に興味はないし、その他大勢になることにも強い関心が無い。もちろんこれはこの世代に付きまとう一種の呪いの一つかもしれないが。
SEOと言の葉
一番最初の段落で紹介したブログのアイディアを練る方法論、このなかで言及されている途中のテクニックはざっくりいえば5W1Hを意識しよう、そしてそれはそのままタイトルに使えるし、検索キーワードになっているんだよ!そんな主張がある。確かに意味合いとしてはわかるのだがはてさて「ブログアイディアの作り方とは」という検索クエリはどれだけ日本にあるだろうか?「おいしいクッキーの作り方はどうやるの?」なんて文章は確かにここに書き記されたように書くことができる、破綻はないハズだし意味も分かる。しかしやはり違和感が残る。
「ブログ アイディア 方法」 「クッキー レシピ」
私が打ち込む可能性が高いクエリは上のようになる。はたせるかなこれが自然言語だろうか?もちろんこんなクエリを要求してしまうのはまだまだ検索エンジンが未熟だった時代、黎明期の結果の貧弱さによって鍛えられたからである。とはいえどうにもSEOという界隈で交わされるクエリの概念、投下されるクエリの多さというのはまだまだ上記のようなクエリの多さを感じさせる空気が漂っている。
「クッキー」の検索ボリュームは約84K「クッキー レシピ」の検索ボリュームは約19K
もちろん北米でのクエリにも同様のものは上位にある。しかしhow/whatが付与される文章としのクエリもまた数多くある。そして日本語のクエリにはそれに該当するクエリはほとんど見られない。
この違いは実際のところ様々な改良が施されているGoogleの検索結果画面において、その機能差が開いていることからも伺える。英文法に乗っ取って考える限り、おおむねどれが質問であるのかがわかりやすいし、つまりはコンテンツとしての答え合わせもしやすいはずだ。ところが日本語の場合はそうなっていない。いや、もちろんそのような日本語も使えるのだが私たちは日ごろそのような会話もテキストも操らないのだ。ところが北米ネイティブなSEOの概念が、逆説的に日本語のコンテンツそのものに影響しているのではと思えていてならない。
いかがでしたか?ブログに代表されるノイズ。皆が嫌う?アフィリエイトサイトなど上位にあればあるほど、SEO的な思慮が重なっていればいるほど生まれる不自然さ。これは単にSEOの敗北とかそいうことではなく、アルゴリズムをハックしようとする高度な計画においてあるいみなるべくしたなった状態。いわゆるちゃんと?した編集さんやライターが思う日本語の記事というのは往々にしてSEOの文脈・ロジックにそぐわないというか、そぐってヒットしている感覚にはなっていなかった。なぜだ?
この本の中で解説される「現代口語演劇理論」あたりの部分で私はなかなかの衝撃をうけたというか、腑に落ちるところがとても多くあった。
・日本語は、 強弱アクセントを( ほとんど)使わない。
・日本語 は、 強調したい言葉を、語頭に 持ってきて繰り返すことができる。
平田オリザ. わかりあえないことから コミュニケーション能力とは何か (講談社現代新書) (Kindle の位置No.766-767). 講談社. Kindle 版.
引用した部分は西洋の戯曲との差分から導き出す日本語の特徴的案要素だが、そのあとに続く段落で現代口語演劇理論についてがでてくる。その本筋は実際の書籍を手に取っていただきたいが、この口語という部分もまたこのブログ的文章コンテンツが溢れかえっている今の状態に引っ張ってこれる考え方だと感じた。
墜落は仕方がないが堕落はいけない
語順や文法的正しさが日本語的なリズムにうまく溶け合うことができるのか否か。ここ次第でインターネットの検索というのは今よりもっと良い体験を生むのではないだろうか。ただのエコーチェンバーじみたDiscoverなどの検索をしないで済むような方向性はおそらく一定の成果しかでないでいてくれると期待している。どうでも良くないものが存在する価値が無いかのようなことにならないようにしないといけない、さながら遺伝子プールがもつ多様性のように。
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