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小説『Mind Dance』
狭いアパートの重いドアを開き、行儀悪く靴を脱ぎ捨てて部屋に入ると、ゆらめくように夜がやってきて部屋全体を闇が吞みこんでしまっていた。
外を歩いているときはそれほど暗さを感じなかったのに。ため息をつき私がいない間この部屋にずっと留まっていた空気を換気するために奥の窓に向かう。ガラス戸を開き、ベランダに出て周辺を見回すと幾世帯もの家の窓に、ぽっとそこだけ浮かび上がるような照明がいくつか灯っている。透明な風がしのび込みレースカーテンが揺れる。部屋が薄ぼんやりとした生き物に見えるのは月明かりが照らすので……。
窓を開け放してベッドの脇にいつも置いてある非常用の懐中電灯を手に取り、部屋の照明はつけず冷たい床に座り込む。そうしたい日なのだ。
「おかえり」
その声に、部屋の隅っこを懐中電灯で照らすと、そこにあなたが座っていた。
「ただいま」
「隣に行っていいかい?」
「もちろんよ」
あなたは私の隣に移動して同じように腰を下ろし、片膝を抱える。あなたの瞳と月明かりがあれば懐中電灯は必要がないだろう。一部分を極端に照らし出す明るさは眩しすぎて目が痛い。迷っているとあなたは私にこっそり耳打ちして片付け忘れていたクリスマスの飾りの存在を思い出させた。私はそのアイディアに乗って懐中電灯から小さな電飾の灯りにシフトする。
それはいくつもの星だった。今宵の闇は光を美しく見せるためにある……。あなたは電飾を体に巻きつける。光があなたの顔の輪郭を映し出す。煙草に火をつけている。朧な光を頼りにあなたの瞳を覗くように見つめる。黒いシャツに黒いズボンを纏っているあなたは暗闇に紛れてしまってよく見えない。見えるのは、顔、首、腕、はにかむような裸足の足首、露わになった肌はそこだけ。点々と浮かんでいるようで不安になってあなたの手に触れる。あなたは私の指を握る。そして俯きながら言うのだ。
「悲劇なんかじゃないんだよ」
私の手はびくりと反応する。動悸は既にあなたに伝わっているだろう。私はあなたの手をそのまま自分の頬にあてる。あなたの匂い。あなたの温度。不意にほろほろと涙が頬を伝う。
「淋しい」
「君が淋しいのは辛い」
「……哀しさだってこれからやってくる。怖い」
「君はまだ完全な形を見出していない……。完全な円環というものを。円環は守護してくれる。まろやかに歩き、そこを曲がったらすぐそばに死が見えるようになる。こんにちはと言えるようになる」
「無理よ」
「隣り合わせなんだよ」
「なぜ私を残していったの? 今はあなたの存在を感じていてもきっといずれ残酷な時間が無へと流してしまうんだわ。そうとしか思えなくなるなんて胸が潰れそうになる。こんなのいけないわ」
「これでいいんだ。無が辛いものだと思うのはそれを遠くに感じているせいだよ。僕も気持ちだけが取り残されたような経験はたくさんある。多分年齢上、君よりも多いだろう。だから判る。大切なものが目に見えなくなった空虚のこと ―― だから円環が必要で、それは人を安寧へと導いてくれる。時々こうして暗闇に空間を作ってみるといい。恐れないで。孤独は悪じゃないんだ……」
「あなたは円環を持っていたのね」
あなたはこくりと頷き、電飾の星たちも寄り添うように一緒に揺らぐ。透けるように輝くあなたは闇を流動的に照らし、何もかも見据える星を散りばめた瞳で私を見つめる。誰よりも私を理解し、心を受け止め、たった今解放してくれている。
「あなたの葬儀で疲れたわ」
「ごめん」
「責めているんじゃないのよ。ただあまりにも素直にあなたの死を受け止める人が多すぎて参ったの」
「そうか……。事実だけど斬新な意見だね」
事実。その言葉に私はしばし無言になる。あなたは気づいて言葉を追加する。
「花が素晴らしかった。君も知っていると思うけど僕は花が大好きだ。香りも良かった。とても懐かしくて嬉しかったよ。真っ白なカラー、カサブランカ、真紅のバラ……」
「痛いところはない?」
私はあなたの言葉を遮って言う。
「ないよ。大丈夫だ」
「だって、あんなに血が……」
「今はもう本当にどこも痛みはないし、安らいでいるよ」
「悔やんでいることはない? ちいさなことでも。あるのなら私にできることは」
最後の言葉を言い終わらぬうちにあなたは強い力で私の頬を両手で包んであなたの方へと向かせた。
「そこが君のいけない癖だ」
私は突然の雷に頭を竦める。
「君には君の使命があるじゃないか。僕よりも君自身のことを考えて」
「私自身のこと?」
「そうだよ。君は素晴らしい人だよ……。その感性も、抑揚も、君自身と同じようにどうしようもない不在感を抱えている人を救うものだ。僕のためじゃない」
その言葉に私は顔を歪めてしまう。
「だから君を完成させて。そして部屋を出て仕事に行く前にいつも通るあの曲がり角を曲がって僕にこんにちは、と言って。楽しみに待っているから。円環とはそのためにあるのだから。すべては繋がっていて巡るんだよ」
「楽しみに待っていてくれる? 本当に?」
「本当に。心から」
あなたは体に巻きつけた電飾を揺らす。光がとどまってしまうからと。電飾ごと体を揺らして動くあなたは美しくてどこかユーモラスで私に哀しみを混合した微笑みを植えつける。揺れる光はどんな暗闇をも淡く照らし、前衛芸術のようであり無国籍だった。あなたは私に手を差し出す。巻き込まれるように私も動く。向かい合い、互いの腰と首に腕を回し、星を散らし、踊る。唇から花の香りの甘い吐息。ああ、このまま時が止まってしまえばいい。
そう思った直後、突然外から強い風が入って来てレースカーテンが舞い上がる。電飾の光は思いがけない方向に散って私たちはよろめいてしまう。私は向かい風に抗うように窓に走り、ガラス戸を閉めた。
たちまち風は消え失せ、部屋の中は静寂に充ちた。私の体はガラス戸とレースカーテンの間に挟まれる格好になり、風の翼をなくしたレースカーテンは力尽きたように私の背中に舞い降りてきた。私は部屋に向き直り、レースカーテンを体全体に受け止めた。レースカーテン越しにあなたの大きな手のひらが私の両頬を包んだ。ざらざらした生地の感触。私は目蓋を閉じてあなたからの短いくちづけを受ける。おやすみ、とあなたは優しい声で言う。感触がそっと消えた。ゆっくり目を開くとレースカーテンの網目から見える部屋の中の電飾はくったりと床に落ちていた。月明かりというスポットライトに照らされて。それを見てあなたらしいと思い、笑った。その瞬間、涙が溢れてとまらなくなる。
しばらくその場に佇んだあと、窓辺から離れた。あなたから受け取った私自身へのメッセージは次にあなたに会ったら進捗状況を知らせよう。ただ、あなたはああ言っていたけれど私はやはりしばらく泣くでしょう。ベッドに座って窓から空を見る。月は先ほどより輝きが増している。周りにいるどの星よりも一層輝く大きな彗星のように尾を引く星が月に向かっているからだ。あなたはこれから月の中に住む。あなたの煙草の煙は霧となり、時折その姿を隠す。おやすみなさい。私はカーテンを閉める。霧は星が月に吸い込まれたあと、消えた。
《 Mind Dance 了 》
※初出 2019年3月26日
※推敲 2025年1月23日
【 あとがき 】
私がこれまで書いて来た自分の小説を読み返すと、登場人物の8割は死んでいました。しかしながら今もって死とは何かと考え込んでは深みにはまり目眩を起こします。
魂の存在があるのか否かは判らないけれど、気配を感じるときもあれば、とてつもない不在感に淋しさが胸を占めることもある。ではどこに行ったのか。実は裏を返せばすぐそこにいるのではとも思う。
もしかしたら年齢を重ねて死が近くなってくる自分への、そして*入院している家族、あと何年一緒にいられるか判らない*愛猫に対しての。時折泣きたくなるような切なさから無意識のエールが届き、この断片的な物語を私に書かせたのかも知れません。(*2019年当時)
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