信州安曇野③【生前葬】
病院の先生から、「S字結腸癌で余命3ヶ月」本人と一緒に聞きました‥
その1年前から、皮膚が痒かったり、血便だと言うので、とにかく血液検査に行ってと言ってたのですが、忙しさを理由に、一向に行ってくれず、心配した友人が無理やり連れて行ってくれましたが‥その結果でした。
旦那の父は胃がんから、一旦持ち直して、6年後に再再発で、亡くなり、母は乳癌でしたので、なんとなく覚悟してたようでした‥
私は、学校の仕事を休ませていただき、娘と信州に戻って、看病に徹しました。友人達も、総動員してくれて、びわ葉の温圧、里芋パスタ、リンパマッサージに食事療法‥他もいろいろ‥
1番居心地のいい部屋に布団を敷いて、毎日誰かかれかが、うちにいてくれて、みんなで手当てしながら、穏やかに毎日が過ぎていきました‥
途中、東京から玄明先生や河野先生や他にも沢山の友人も駆けつけてくださいました。
そのあと、人工肛門の手術をして、いっとき、痛みもなくなり楽になりましたが、その手術の時に、肝臓に2/3転移していることがわかりました。
それから、かなり動けるようになり、自分で部屋の片付けをしていました。絶対見せられないやばいものがあるよね〜と話しながらやっていましたが‥
そして、葬式はしなくていいから、生前葬をしようと言う話になりました。
今までの作品を展示して、生きてるうちに、みんなに会ってお礼とお別れを言いたい‥とのことでした。
友人達もみんな手伝ってくれて、松本の美術館を借りて、準備しました。当日は、びっくりした遠くの友人達が、南は九州、北は北海道、あっちこっちからたくさん集まってくださいました。
1週間の展覧会も、車椅子で、毎日、久しぶりで、これで会うのが最後という、ほんとに、すごい時間を過ごしていました。いつも、本人よりも、周りが泣いていました。
展覧会最終日は、「生前葬」。旦那の生涯の友のシャロムのオーナーがすべて用意してくださり、みんなで充実した時間を過ごすことができました‥
生きていて、離れていて、会えないのと、亡くなって、離れて、会えないのと、なんだか、あまり違いがないような錯覚を覚えました‥
みんな、泣いて、笑って、なんだか、バグワンの「お葬式はセレブレーション、お祝いだ」というのを思い出していました。
「展覧会を1週間やると、絶対、寿命が縮まるよ」と言いましたが、それでもいいと覚悟を決めて、思い通りに、やりたいようにやって、悔いがなかったようでした。
その後、やはり悪化したので、友人のお医者さんの紹介で、諏訪湖のほとりの、ホスピスに入りました。もう、治すと言う段階ではありませんでした。
そこでは、好きにしてもいいと言われていたので、枇杷葉温圧の友人もしょっちゅう来てくださり、痛みを取るのに湿布もしていました。
ある時から、もういいとのことで、痛みがある時だけ、モルヒネをお医者様に打っていただきました。
食欲もなく、点滴もしなくなり、水だけで、娘がすり下ろしたリンゴだけ、美味しいと言って、一口、二口だけ、口に入れていました。一生懸命すり下ろしている姿を今でもはっきり覚えています。
私たちは、ホスピスの小さな和室の休む部屋で、毎晩寝袋で寝泊まりしていました。時々夜中に、別のお部屋の家族が泣いている声が聞こえてきました…
私たちは、2日おきくらいに、ちょうど長くいられる友人が来てくれた時に、1時間半かけて、うちに帰ってお風呂に入ったりして、休ませてもらいました。
旦那は、五穀断ちしているようなものなので、痛みがくるのがたまにでしたので、ほぼ意識がはっきりしていました。なので、友人達が訪ねてきても、しっかり話ができました。
皆さんと話しているうちに、人生相談になってしまうようで、どっちが病人かわからないね‥と本人が笑いながら話していました‥みんな、部屋を出る時は、今生の別れと思い、泣きはらしていました‥
本当に濃い、いい時間を過ごすことができました。私も娘もやれるだけのことは、精一杯やった感がいっぱいで、旦那にも、ちゃんと伝わっていました。
まぁ、いいことばかりではなく、「ちょっと頼みにくいことがあるんだけど‥」「もう今更、なんだってやるよ〜」
「付き合ってた彼女にちょっと借金してたから、○○の絵を送ってくれないか‥」だいたい私が把握していたのは、4人かなぁ〜。
今までで、「離婚してもいいよ〜」と言ったことも何度かあったけど、「そのつもりは全然ないんだけど…」家族絡みの知り合いも多いし、それに、どっかで吹っ切ってから、私は思いっきり好きなことやってきて、なんの恨みもなかったので「まあいいっか〜」所有欲がほぼなかった…
お米が買えないこともあって、実家から援助はしょっちゅうだったけど、絵描きを選んだのは私だし、その生きる姿勢は、ずっと尊敬していたので、何もかわらなかったし‥
いつも、「会いたい彼女に、すぐに連絡してあげるから、言ってね〜」とか「前妻さんや子供達も呼んだ方がいいんじゃないかなぁ」と言っても、かなり痩せすぎて、見る影もなくなっていたので、絶対、「今の姿は見せたくない」と言い張っていました。
それも美学か〜と思いました。もう思い出に残る方の姿を気にしてる感がいっぱいでした。「元気な時の姿で思い出してほしいわけね」と言ったら、思いっきり笑ってたので‥
ある日、旦那の耳に、とっても嬉しい知らせがとどきました。「ルーブル美術館に1週間旦那の絵が飾られる」日本を代表する絵描き‥の中に、選ばれたようでした。
もう本人は行けませんでしたが、友人がルーブルに行って、写真やビデオを撮ってきてくれたのをみて、本当に嬉しそうでした。
私は、これは天からのプレゼントだと本気で思いました。人様のためにいいこともたくさんやってきた結果だと思いました‥
いろんなことがありましたが、最後はほんとに仲のいい友人達10人くらいに囲まれて、手印をくんで、息を引き取りました。
本当に最後はこちらの世界の息を吸って、あちらの世界に移って、息を吐き出すのか!と思ってしまいました。
そこにいたみんなは、自分たちがあちらの世界に行ったら、絶対に玄春さんが迎えにきてくれるだろうから、怖くないね!一足先に行って待っててくれる!そんな不思議な気持ちでいっぱいでした‥
その後のことは、全てシャロムのオーナーが取り仕切ってくださり、私はなんかよくわからないうちに、家にいました。
なんと旦那は自分の誕生日に亡くなったので、友人達と、誕生会をしようということになり、横たわっているとなりで、楽しかった話をたくさんしました。今にも起き上がって、話に加わってきそうでした。
翌日、東京から玄明先生が来てくださり、死装束を着せてくれて、みんなで火葬場に行って、その後はシャロムに集合で、友人たちが続々集まり、まるでお祝いのような雰囲気で天に送ることができました。本当に全てやっていただきました。食事も宿泊も‥何もかも‥
夜に前妻さんと息子さん達が浜松から駆けつけてくださり、娘と初対面‥この辺はどこかに書きましたが‥
シュタイナー学校からもお花が届いたり、たくさんの方々のお世話になりました。私はどこに恩返しをしていけばいいのか‥
そして、13回忌〜
まだまだ、忘れられない友人達が集まってくださり、これもシャロムのオーナーが開催してくださいましたが‥楽しかった〜懐かしい絵も見ることができました。
存命の頃、大きい絵は、温度管理が大変で、私に残しても大変だろうからと、梓川村のアカデミア館に自分で手配して、寄贈させていただいていました。そこから今回、何枚か、貸し出してくれていました。
チャーリーさんのミュージックあり、昔の生徒さんが、さらに素敵になって印度舞踊を踊ってくれたり、あの今や有名人でお忙しいはた先生のオイリュトミー あり‥。
なんと、娘は私が旦那に出会った20歳になっていて、私は旦那が亡くなった59歳でした。
さて、今回、私がお世話になっている、ハーフファスティングクラブの代表の織田先生のセミナーをきいていて、ふと書き始めたのですが、今思うと、先祖供養と旦那の供養になっていたことに気がつきました。
過去にしっかり向き合って、手放して、さらに前に進んでいく‥
最後の旦那の言葉は「由加里を頼む!」でした。
この後もいろんなことがあり、長〜いのですが、今回はここまでにして明日の蟹座新月(部分日食)夏至が重なり、なんともパワフルな夜の瞑想会に備えたいと思います。
こちらの会で4月から、毎朝6時から30分、「朝ヨガ×禅呼吸&瞑想」を2ヶ月半以上行なっています。(そのあとの代表のプチセミナー40分がまた、すごく勉強になります)
私は毎朝その前の5時から30分、お気に入りの別の瞑想会で自分の心を整えています。なので毎朝4時おきです。こんなにゆったりした時間が持てるのは、本当にありがたいことです。
思いもよらず、旦那をよく知っている、懐かしい方々に、読んで頂いてたようで、感謝です。一緒に供養してくださり、ありがとうございました🙏
これからも、自分の身体をよくしていこう、子供のために頑張ろう、そういう方たちや、メンバーさんたちに寄り添って、何かお役に立っていきたいと思っています。相変わらず、まだやりたいことがいっぱいあります。
全身全霊をかけて育ててきた娘は、シュタイナーのいう通り、21歳すぎて、自分の力で立ち始め、フランス人のパートナーを得て、芯からやりたいことをやる道に進み始めています。シュタイナー教育もうまくいってるかなぁ…波乱万丈の子育てもいつか機会があったら…
私の心は全く離れませんが、寂しいですが、手は離れていきます…これからは、また自分育てに時間を使っていきます。今後ともよろしくお願いいたします。ここまで読んでくださった皆さん、ありがとうございました…