ボクのニ、ゼロ、ニ、イチ。
2021年はどんな1年だったのだろう。
時を止めようとする者、抗おうとする者、ただ立ち尽くす者、受け入れ歩を進めようとする者、無関係とばかりに傍若無人に振る舞う者、見ないふりをして自らの世界に閉じこもる者、必死で縋れるものを探す者、、、
2021年の僕は何処にいて、何をして、何を感じて、何処に向かうつもりで、2022年を迎えたのだろう。
逃げ惑うでも無く、大丈夫だと自分に言い聞かせながら
、楽しむこと、寄り添うこと、息を止めないこと、無駄にしないこと、自分'なり'を見つけること、を心に留め経た一年が僕の「2021」だったように思う。
と、言うと格好良く聞こえるのかも知れないが、
違う、そうではなく、ただラクな選択をしただけ。
荒んだな、と思いたくなかっただけ。
そしていつも以上に一人でいることを選択した。
電動自転車を購入し、電車やバスといった公共交通機関を全く使わなくなったり、
東京を離れ、1人沖縄は石垣島の離島や宮古島や本島、鹿児島の奄美大島などに赴き、海に入り魚と戯れ、浜辺に横たわり太陽を浴びる日々を過ごしたり、
お決まりのように
NetflixやAmazon primes等で映画やドラマを観たりアニメを観たり、
適当な本を選んで読書をしたりして過ごす時間が増えた。
何となく他人の声が聴きたくなると、当時流行ったClubhouseに入って時間を潰したりもした。
それでも時間を、自分を持て余して何も手につかず
何をするでもない時も多々あった。
仕事の時以外は。
僕は東京で飲食店、カフェ・バーを営んでいる。
(2021年は緊急事態宣言やら蔓延防止やらで
時短営業や休業することが多かったが)
なので仕事柄、他人と接する機会は多い。
対複数人というよりは、1対1で接することが殆どの店だ。
お店にはライブラリーがあり、まだまだ少ないが
様々な書籍を置いてある。が、読書を楽しむお客様は本の数以上に少ない。
誰かと会話をしたい、という方が多い。
お客様との会話は、というと
時節柄、お客様とコロナの話をするのか、と言えばそうでもない。
何人かは、来店して直ぐに
「今日は(陽性者)〜人だったね。」と話を振ってくるが
「そうなんですか。ごめんなさい、見てなくて。」
と大抵は聞き流す。
何故かと問われれば面白くないから。
明るい、暗い、では無く、会話に発展性が無いから。
お決まりの展開や起結になるのが分かっているのでつまらないから。
「ワクチン打った?2回目終わった?」も「ワクチン打つべき打たないべき」話もそう。
自分の身体である。自分で判断すればいい。差別も区別もしない。
「実はコロナに罹っちゃっててさ。来れなかったんだよね。」
とカミングアウトしてくれるお客様もちらほらいらっしゃる。
勇気を振り絞って言われる方、あっけらかんとしてる方、後遺症に悩まされる方、職を失った方、
いつもと変わらない日常に戻った方戻らない方、戻ることが出来た方出来ない方、様々。
「そうだったんですね。大変でしたね。」
と僕は、何でもないことのように返し、いつもと変わらず、お店に来てくれたことに、打ち明けてくれたことに感謝する。
そうしながら、「カミングアウトする」という行為、心の蟠り、皆と同じじゃないといけないというプレッシャーから
自らを解き放つ行為、その項目が増えたな、と思う。
そしてその項目は「特殊」でも「特異」でもなく
日常の、普段の生活の中に自らのこととして
身近に隣り合せで「明日は我が身」として
「普通に」そこにあるのである。
僕の幼い頃は、部落出身というのがあったし
今では一般的なシングルマザーやシングルファーザーも
「片親」と言われていた。
ある程度大人になると童貞(処女)か否か、異性と付き合ったことがあるかないかで
差別とは言わないまでも「弄り」の対象になってくるし、
そうだということが「恥ずかしい」と思ってしまう。
そうして社会に出ると、在日、LGBTQ、身体的障がい、精神的病い、といった「普通の人」と「異なる」扱いをされる人々、当事者含めそれが「恥」だと思う人々、当然のようにそうする社会、そう思うことが当たり前の社会に直面する。
そこに新たに出てきた、「普通の人」と「異なる人」の狭間で右往左往する、させられる
「コロナになった人」。
場合によっては「異なる」に上乗せさせられる「コロナ」。
数十年前は「エイズ」がそうだったが、ここまで身近では無かった。無かったがゆえに差別も酷かった。
弄りや差別が日常化された日本社会で
「多様性」を広く一般化しようとし
「歪」が表面化している中で
振って沸いた「コロナ」と「コロナになった人」、「カミングアウトする」ということ。
そしてそれに慣れていない人たちがカミングアウトする人、される人に別れ、それにより繋がろうとした時、
思考と感情とが色とりどりに交差する。
そこにある始まりと終わり、停滞。
誰を許し、誰に許されるのか。
そうすべきなのか、それが必要なのか。
知る者はいない。
ただ、人の生命の重さは軽くなった。
自分の生命も他人の生命も、想像する何かの生命も。
人は孤独だと思う。社会という枠組みの中で
様々な生業に携わりながら、沢山の「人」に囲まれて、接して生きているからこその孤独。
何かに依存することで得られる安心感を欲する。
やり甲斐生き甲斐に至るまでそうなのかも知れないが、
だからこそ
「自分とは何だろう?」
「生きている意味はあるのだろうか?」.
「存在意義は?」.
「.何をすればいいんだろう?」
「何を思えばいいんだろう?」
「何と関わればいいんだろう?」
等と迷い悩み戸惑い、時に逃避する。何かにしがみつき、囚われ、不平不満を吐き散らかし、痛み傷つき、こんなものはリアルではないんだ、本当の自分ではないんだと、何処かを見定め、それが前を向くことなんだ、これが正しい道なんだと。
そうして「精神的自立」なるものを手にする。
確固たる自分、理性的思考、というものか。
首が座る、と言い変えてもいいだろうし、
不完全であることを客観性を以て認識し
完成することなく完璧足り得ない人生を楽める精神性。
異なる、ということが否定や排除に繋がることなく
受け入れるべきものとして認識される。
所謂「愛」というものが生まれるのである。
与えるものでもなく、捧げるものでもなく
名も無き一輪の花のように、道端に生える雑草のように、公園に生える木々のように、気がつくとそこにあるもの。
それ自体には、エゴや欲望の入り込む余地はないように感じるが、
人はエゴと欲望を以て生きるもの、だから面白い。
その狭間での揺れ動き、一喜一憂喜怒哀楽、人間模様、カテゴライズ、
俗に言う「ドラマ」がある。
主人公も脇役もエキストラもいない、
主観性と客観性、偶発性と必然性のみによって構成される
0人称のストーリーが数多無数に拡がっているのである。
無為な1日1日の積み重ねが、無味無臭な時の流れが
解像度を上げることによって意味のあるもの、味わえるものに変わる、変えられる。
揺蕩い、揺れ動きながらも
損も得も業も徳も無く、そんな不純物の混ざる余地無く欲するままに体感する「生」。
そこにある自らの「様」。
年齢や人種や性別や性的指向に関係なく
様々な感情や価値観、考え方に身を晒すことで成立する
職業を選択し、自ら営み現場に立つことの面白さを
改めて認識した1年、人生の句読点として
僕の中に「ニ、ゼロ、ニ、イチ。」と深く刻まれた。
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