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社会にヒモ付けられ固定された観念からの卒業

とある雑誌媒体で「ヒモ男」云々、
という記事を見かけ
未だに「ヒモ」という言葉を使っている事に
愕然とした。
「ヒモ」という言葉、感覚、概念は
もう無くした方が良い。
男は仕事、女は家事、という
社会的ジェンダーの強制の一部であり
そういった価値観に囚われ引き摺りながら正当化し
仕事をして稼いでくる方が立場が上、
家事をやる方が立場が下、
という造られた価値観に根差し
またそれを生み出していく。
男尊女卑は無くならず
男女平等はなし得ない。
また、家の“内”にいるのだから
家事、子育てをしなければならない
という考え方であるなら
仕事は家の“外”でなければならないのは必然で
“家”を仕事の“場”にするには
違和感を生じるので
テレワーク、リモートワークをするには不向きで
“家庭”という不文律が強い地方程
上手くいかない、移行出来ないのは当然である。
これは旧約聖書の否定、
其れに端を発する宗教の根本的な否定に繋がるので
余り賛同を得られないのかもしれないが
僕はそう思う。

イヴの創造
イヴはエデンの園でアダムの妻として作られた。神は「男性が1人でいるのは良くない。私は彼に似合う女性を作ろう。」と決意した。〜
〜「神はアダムを深く眠らせ、アダムは眠った。神は彼の肋骨を1本取り、そこを肉で塞いだ。そして神はアダムから取った肋骨で女性を作り彼女をアダムの元に遣わせた。」〜
誘惑、堕落、園からの追放
女性には子供を産むこととそれに伴う痛みの罰を与えて男性に服従させ、「おまえの望みはおまえの夫のものだ。そして彼はおまえを支配する。」と言った。そしてアダムには人生を通した労働の罰を与え、「顔に汗をかくことで、地面に戻るまでパンを食べることが出来る。」と言った。〜
(ウィキペディアより抜粋)

旧約聖書の創世記にある有名なお話だが
何を言わんや、である。
根は、相当に、深い。

主夫ないしは主婦(専業でも分業でも良いけれど)という言葉もどうかと思うがこれも言うと長くなるので
割愛して
お互いがパートナーとして
心地良くいる為の役割分担を
お互いに思いやりを持って出来ることが大事である
と考える。こう言うと陳腐な物言いに聞こえるが、
そう考えると制度的結婚にも
疑問を感じずにはいられない。
例えば
結婚目的でパートナーを探すという行為も
結婚をして家庭を持つ、家庭に入る事が幸せ
という価値観、固定観念と繋がっていて
これには、
子供を作る事が出来ない人は
パートナーとして不適格
という考え方と地続きであり、それは
学歴や経済的にだけでなく出身地、人種、LGBTや優生思想に至るまで
潜在意識に植え込まれている価値基準、
そしてあらゆる差別、
と全てに密接に繋がっており
その上に結婚制度があるのだから
日本では夫婦別姓の選択すら認められないのは
必然を通り越して最早自然な慣習だと言える。
その中で拡がり定着している
「出会い系サイト」の利用目的に於いても
多数の人たちが
“結婚したいから出会い系で相手を探している”
ということの社会的ジェンダーに従った
意識思考の不毛さは
“SEXをしたいから出会い系で相手を探している”
人たちの方に好感を持てる、
性欲だけの方が打算なく余程ピュアなんじゃないか、と感じてしまう程である。
同性や異性を性的に消費しながら
孤独でいることの寂しさを覚え、
他人の大切さを知り、
愛する、という事を学び
友人やパートナーを見つけられたなら
それに優る喜びはないのではないか。
そしてライフワークと呼べる何かに出会い
それを続けられたなら
それに優る幸せはないのではないか。

そういった様々な事柄が幸か不幸か
コロナ禍によって可視化されてきてるように感じる。
見えない“何か”を怖れ、
“何か”に囚われ、
“何か”へ縛りつけられるなら
その“何か”が“ウィルス”だと言うのなら
社会的ジェンダーの強制こそが“ウィルス”であり
それによって生まれ続ける、
潜在意識に刷り込まれ続ける
“何か”を意識し、抗い、変えていくべきではないのか。

昨日今日の出来事がいつの間にか社会通念となり
常識としてそこから外れたものを排除していくのが
当然とされる、それを正義と真顔で言い切る
ぶ厚く透明なグラスのような中身の無い社会に
支配され続けるのだけは御免被りたい。

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