環流夢譚――「ほんとうの仏教」という神話 その1

はじめに


 さて、前回の最後に私はこう申し上げました。

 私がこの雑文を書き始めてから、かなりの時間が経過しております。その間、この雑文を書くためにへっぽこ勉強をしているうちに、己の勉強不足を痛感したり、「これまでの自分の仏教観を修正せざるをえないのではないか?」と感じることが多くなってきました。私の現在の仏教観は、この雑文を書き始めた当初のそれとは異なるものになっていると言わざるをえません。
 ゆえに、どういう立場でこんなものを書いて発信しているのかを明らかにしないまま話を進めるのは不料簡ではないか、自分の考えがどのように変化したのかを明らかにしておく必要があるのではないかと思った次第です。
 そこで、次回から2回ほどかけて、この雑文を書き始めた当初と比べて、自分の考えがどのように変化したのかを明らかにしておきたいと思います。

 そういうわけで、己の仏教観をどのように訂正したのかを、へっぽこ勉強を続けつつ書きためておったのですが、書き進めるうちに、話が当初の想定どおりに進まなくなっていきました。

 というのも、私は当初は、自分の仏教観の修正は部分的なものにとどまるだろうと浅はかにも思っていたのですが、勉強を続けるうちに、自分の仏教観を根本から修正しなければならないと思うようになっていきました。また、自分がどのように仏教観を修正したかを述べるためには、いくつもの分野にまたがる少々ややこしい話をしなければならないことも明らかになってきました。

 ですので、私がこれから述べようとしているお話は、とてもじゃないけど「2回ほど」では終わりません。おそらく8~10回ほどかかることになると思われます。最初の2回ぐらいで本稿で扱う問題の背景を説明して、「その3」あたりから本題に入ることができるようになると思われます。そういうわけで、今回から8~10回ほどかけて、このnoteを書き始めた頃の自分の仏教観を徹底的に批判する作業を行うことにします。パク、もとい参考にした文献は各回ごとに明記し、誤りが見つかれば修正致します。


釈迦の“オリジナルの”教え?

 前置きはともかく始めることにしましょう。これまでに見てきたように、インド仏教はそれまでになかった仏典を次々に創作し、新たな地平を切り開き変容を続けて、古い時代にいた場所から随分と遠い場所に行って滅んでいったことになります。密教、特に番外編で紹介した後期密教の世界を見て、「仏教っていったい何だったっけ……?」となってしまったという方もおられるかもしれません。

 古い時代の仏教と後世の仏教にあまりに隔たりがあるということもあってか、私の非常に狭い観測範囲でも、次のような見解を時折見かけます。

〇釈迦が説いた元々の教えこそが“ほんとうの”仏教だ。大乗仏教は、釈迦が説かなかった要素が加えられて別物になってしまったニセモノだ。

〇ミャンマーやタイやスリランカで行われている上座部仏教は初期仏教であり、釈迦が説いた元々の教えを忠実に継承した“ほんとうの”仏教だ。それ以外の大乗仏教などは、釈迦が説かなかった要素に満ちたニセモノだ。

〇釈迦が説いた元々の教えは、呪術などの迷信を説かない合理的で論理的で科学的なものであり、宗教というよりも生き方の哲学だった。日本仏教をはじめとする大乗仏教は呪術を行い、習俗と合体し、迷信と化してしまった堕落した仏教だ。


 結論から先に申し上げると、私はこれらの見解に同意することはできません(これらの見解とは逆に、大乗仏教こそが釈迦の教えを正しく継承しており、東南アジアで行われている「小乗」仏教は劣った仏教であると言う人もいます。もちろん私は、こうした見解にも同意しません)。

 まず、「釈迦が説いた元々の教えこそが“ほんとうの”仏教だ」という見解について。これらの見解は、歴史上の釈迦が説いた“オリジナルの”教えこそが“ほんとうの”仏教であるという立場だと言っていいでしょう。このような見解を唱える方は、「歴史上の釈迦が説いた“オリジナルの”教えはこれこれこういうものだ」という確信があってそのように主張なさるのでしょう。そのような確信に基づいて、“オリジナルの”教えから外れたものをニセモノだとおっしゃるのでしょう。歴史上の釈迦がどんな教えを説いたのかは既に確定しているとお考えなのかもしれません。しかし、少なくとも現時点では、歴史上の釈迦がどんな教えを説いたのかは、ぶっちゃけて言うと“よくわかっていない”のです。

仏典成立史の謎

 ちょっとばかり話が長くなりますが、時計の針を戻してこの問題についてじっくり辿ってみましょう。この雑文の第1回で述べたことの繰り返しになりますが、『律蔵』「小品」には、次のような伝承が登場します。釈迦が亡くなった際に、マハーカッサパという長老は、釈迦の教えが失われたり、恣意的にねじ曲げられて伝えられたりすることを恐れました。そこで、法(釈迦が説いた教え)と律(教団の運営規則)を確定するために、500人の阿羅漢を集めた会議が開かれ、法と律がまとめられたというのです。この伝承は「第一結集」と呼ばれています。

 この伝承がどこまで歴史的事実なのかというと、ぶっちゃけよくわかっていません。いずれにせよその後時は流れ、仏教世界は多くの部派へと分裂していくことになります。この分裂の経緯もぶっちゃけよくわかっていません。ただ、紀元前2世紀頃から紀元後4世紀頃にかけて、インド各地に現存する碑文にいろんな部派の名前が登場するようになりますから、少なくとも仏教世界が多くの部派へと分裂していったことは間違いありません。そういうわけで、釈迦の教えと教団の運営規則は、部派ごとに別々に伝えられていくことになります。それぞれの部派に伝わっている釈迦の教えを経蔵(これが日本語で言う「お経」というやつです)、教団の運営規則を律蔵と言います。やがて各部派は、この経蔵と律蔵に対して注釈をつけるなど、組織的な研究を行っていくようになります。そうやってできあがった経蔵と律蔵に対する注釈を論蔵と言います。これら経蔵・律蔵・論蔵を合わせて三蔵と言います。

 そういうわけで、複数の部派がそれぞれ異なる経・律・論の三蔵を保持して伝承していくことになりました。しかし残念ながら、経・律・論をセットで現在まで伝えているのは、現在の東南アジアで行われている上座部のみです。現在の上座部に伝わっている三蔵はパーリ語で書かれており、パーリ三蔵と呼ばれています。それ以外の部派が保持していた三蔵は散佚してしまって、いずれの部派のものも、その一部しか伝わっていないのです。

 まず、経蔵について見てみましょう。パーリ経蔵は以下の5つに分類されています(5つに分類されているので、パーリ五部とも言います)。

 上座部以外の部派が保持していた経蔵については、サンスクリット語の写本やガンダーラ語の写本やチベット語訳などが部分的に現在まで伝わっています。中国で漢訳もなされており、阿含経と呼ばれています。阿含経には長阿含経・中阿含経・雑阿含経・増一阿含経の4種類があります。パーリ経蔵との対応関係を示すと次のようになります。

長阿含経    長部に相当
中阿含経    中部に相当
雑阿含経    相応部に相当
増一阿含経   増支部に相当

 なお、パーリ小部に相当する経典については、その一部が漢訳されてはいるものの、漢訳仏典の世界では阿含経というカテゴリーにまとめられることはありませんでした。

 次に、律蔵について見てみましょう。律蔵は、上座部が現在まで伝えているパーリ律、法蔵部が保持していた四分律、大衆部が保持していた摩訶僧祇律など、複数の律が現在まで伝わっています。これらの律蔵は、経分別と犍度部から構成されています。経分別というのは、波羅提木叉(出家者の生活規則のことです)を解説した部分で、犍度部は出家教団の運営規則などを規定した部分です。なおパーリ律には、経分別と犍度部に加えて、経分別と犍度部を解説した付随と呼ばれる部分もあります。付随は、言わば付録のようなものです。

 最後に論蔵について。論蔵は、各部派の主張や思想が反映されることもあって、内容も部派によって全く異なったものになっています。

 ところで、パーリ三蔵全体がどのような過程で形成されていったのかについては定説がなく、よくわかっていません。ただ、以下の四つの点については多くの研究者に前提として受け入れられているとは言えます[清水 2021: p.33]。

①経蔵の小部には、成立の古いテキストから新しいテキストまで様々な文献が含まれているが、小部というカテゴリーは他の四部よりも成立が遅い(つまり、相応部・中部・長部・増支部の四部がまず成立し、その後に小部が成立した)。
②増支部には比較的成立の新しい説が多く含まれている(相応部・中部・長部と比べて、増支部は他の部派と内容の不一致が著しいため)。
③パーリ律の付随は、経分別と犍度部よりも成立が遅い(付随は経分別や犍度部を解説したものであるうえ、内容的にも他部派の律と全く対応しないため)。
④論蔵の成立は、経蔵の四部や律蔵よりも成立が遅い(先ほど述べたように内容が部派によって全く異なるため)。

 そういうわけでパーリ三蔵については、経蔵の小部・律蔵の付随・論蔵の成立がより新しいと言われています。ただし、この新しいとされる部分がどういう順序で成立していったのかという点も定説はなく、不明なままです。

 さて、以上のことを踏まえた上で、まず確認しておかなければならない重要な事実があります。それは、我々が「仏典」と呼んでいるものが文字化され、書写されるようになったのは釈迦の時代から数百年後のことだということです。つまり、釈迦の時代から数百年もの間、仏典は口頭で伝承されてきたのです。ですので、その伝承の過程で言い間違いや聞き間違いや記憶違いや後世の人による新たな教えの創作など、様々な伝言ゲーム的問題が起こったと考えられます。実際、現在のパーリ三蔵を見ても、明らかに後世の人が改変したり書き加えたりしたとしか考えられない箇所があります。

 もっと言えばそもそも、現在の我々が読むことができる経や律や論はどれも、上座部や有部といった部派が伝承してきたものです。上座部や有部といった部派のフィルターを通っていない仏典は存在しません。残念ながら、仏教世界が多くの部派へと分裂する前の経や律に直接触れるすべはないのです。ですので、たとえ「初期経典」と呼ばれる文献であっても、釈迦の肉声を忠実に伝えていると無批判に考えることはできません。パーリ経蔵やパーリ律であっても、歴史上の釈迦の肉声を忠実に伝えているという保証はありません。

 もちろん、現存するパーリ三蔵には、成立が古い部分もあれば、後世の人の手が加わった新しい部分もあります。そこで近代以降、多くの研究者が、古い部分と新しい部分をわけて、歴史上の釈迦の教えを復元しようと試みてきました。しかし研究が進むにつれて、仏典の成立や受容や流布の流れは非常に複雑で、「まずAという部分が成立し、次にBという部分が成立し、次にCが……」などという単純な展開ではないことが明らかになっていきました。また、仏典の古い部分と新しい部分を一義的に確定することが困難であることも指摘されるようになりました(もちろん、その過程で先ほどの①~④のようないろんな成果があがったことも間違いないのですが)。

 また、假に「Aという部分はBという部分よりも成立が古いテキストだ」と確定できたとしても、それだけではAの方がBより元々の釈迦の教えに近いなどとは断言できないという問題もあります。先ほど申し上げたように、仏典は釈迦の時代から何百年も口頭で伝えられてきたものですから、たとえAが古い時代に成立したテキストでも、伝言ゲームを通じて“オリジナル”と違う教えに変わっていない保証はありません。逆に、Bという部分がテキストとして成立したのは時代が下ってからだけど、後世の人によって改変されることなく正確に伝えられてきたということだって考えられるわけです。

韻文経典をめぐる問題

 さらに、より古い経典に遡ることを通じて歴史上の釈迦の肉声に近づこうとするアプローチには、次のような問題もあります(以下の研究史の整理は、[清水 2021: pp.40-47]を参照した)。先ほど触れたように、パーリ小部には成立の古いテキストから新しいテキストまで様々な文献が含まれているのですが、そのなかでも特に『スッタニパータ』・『ダンマパダ』・『テーラーガーター』・『テーリーガーター』は古いものだと言われています。また、パーリ相応部には有偈篇という箇所があって、これも古いと言われています。これらの経典は、主要な部分はすべて詩(韻文)で、教えの内容を韻文で簡潔にまとめて表現した詩が多く収められています。これらの韻文経典は非常に古い経典だということで、仏教研究において最も注目を集め続けてきた資料の一つです。そして、この韻文経典のなかでも特に古いと言われているのが『スッタニパータ』です。『スッタニパータ』は全部で5つの章から構成されているのですが、特に第4章と第5章は、現存する数ある仏典のなかでも最古の部分だというのが通説になっています。

 それでは、最古の仏典とされる『スッタニパータ』を読めば釈迦の肉声に接近できるのかというと、実は必ずしもそうとも言えないのです。『スッタニパータ』を読んでみると、ジャイナ教の聖典や、ヒンドゥー教の聖典である『マハーバーラタ』と共通する表現はいっぱい出てくるのですが、仏教特有の用語がほとんど出てこないのです。

 信じられないという方は、安価で入手しやすい『ブッダのことば』(岩波文庫、1984年)という中村元(1912-1999)による日本語訳がありますから、手にとってみて、中村による注釈を一読してみて下さい。見てのとおり中村注には、『マハーバーラタ』にも同様の表現があるという指摘や、「ジャイナ教でも同じことを説く」とか「同じ表現がジャイナ経典にもある」という指摘がちょくちょく出てきます。ジャイナ教はよく知られているように、仏教と同時期に登場した宗教で、仏教とは異なり苦行を重んじます。一例をあげましょう。『スッタニパータ』第655偈にはこうあります。

 熱心な修行と清らかな行いと感官の制御と自制と、――これによって<バラモン>となる。これが最上のバラモンの境地である。

前掲書、p.141

 パーリ語の原語は、「熱心な修行」はtapa、「清らかな行い」はbrahmacariya、「感官の制御」はsaṃyama、「自制」はdamaです。これらの修行法はウパニシャッドにも登場するもので、仏教独自のものではありません。また、ここで「熱心な修行」と訳されているtapaという語は「苦行」を意味することばで、ジャイナ教などで苦行を重んじるのを受けたものです。

 訳者の中村元は、『スッタニパータ』をはじめとする韻文経典の研究を通じて得られた最古の仏教の姿について、「いわゆる仏教語とか仏教独特の術語というものはほとんど見当たらない」「いわゆる教義なるものはほとんど説かれず、むしろ懐疑論的な立場に似たものが表明されている」「仏教的なニュアンスが少なくて、むしろアージーヴィカ教やジャイナ教を思わせる文句が少なくない」「最初期の仏教の修行者の生活は、後代の僧院の修行僧(ビク)のそれとはかなり異なり、むしろ叙事詩に現われる仙人のそれに近い」「戒律の箇条の体系はまだ成立していない」と指摘しています[中村 1971、中村1992]。
 
 もしこの結論が正しければ、四諦八正道や五蘊・十二処・十八界や十二支縁起といった仏教の基本的な教えのほとんどは、歴史上の釈迦が説いたものではなく、後世の人がつくったものだということになります。また、釈迦は35歳のときに菩提樹の下で仏になったとか、その後五人の比丘に対して四諦の教えを説いたといったような、我々になじみのある仏伝の大部分も、後世の人による創作だということになってしまうのです。ちなみに、四諦八正道や五蘊・十二処・十八界や十二支縁起といった我々になじみのある教えは、韻文経典ではなく、『スッタニパータ』よりは新しいと言われている散文で書かれた経典に説かれています。経蔵に収録されている韻文経典と散文経典のあいだには、大きな思想的断絶が存在しているわけです。この中村元による研究は、学界に賛否両論を巻き起こしました。例えば、仏教学者の三枝充悳(1923-2010)は、韻文経典だけをもとに歴史上の釈迦に遡っていくと、歴史上の釈迦が説いた仏教独自の教えがほとんどなくなってしまい、なぜ多くの人々が釈迦に帰依したのかが全くわからなくなってしまうと指摘しました。

 その後も中村の研究を引き継ぐ形で、韻文経典を通じて仏教の古い形態を探ろうとする研究は続けられていくことになります。個人名をあげると、荒牧典俊(1936-)や並川孝儀(1947-)や中谷英明(1947‐)などの研究者が、韻文経典の古い部分と新しい部分をも厳密に区分けして、仏教の源流に迫ろうとしました。これらの研究は、韻文と散文のあいだだけではなく、韻文経典の古い部分と新しい部分のあいだにも思想的な隔たりがあることを指摘しました。

別系統説

 このように、韻文経典を通じて古い時代の仏教へと遡っていこうとすると、仏教の独自性が消えていってしまうのです。また、韻文経典で説かれるジャイナ教のごとき教えと、散文で説かれる四諦八正道や五蘊・十二処・十八界や十二支縁起といった教えはあまりにかけ離れており、前者が後者へ変化していく過程を説明するのが非常に困難だという問題もあります。そうすると、韻文経典を通じて古い仏教の姿を探ろうとする研究法自体にそもそも問題があるんじゃないかという話にもなってきます。

 そういうわけで、以上のような韻文を重視する方法論に疑問を呈する研究者もいます。個人名をあげると、村上真完(1932-)やJan Willem de Jong(1921-2000)や櫻部建(1925-2012)や松本史朗(1950-)や馬場紀寿(1973-)や清水俊史などの研究者が、韻文経典に最初期の仏教の姿を見い出そうとする見解とは異なる説を唱えています。彼らの学説を一言でざっくりまとめると、韻文と散文は伝承形態が異なっており、別な系統に属するものだったというものです。韻文と散文は異なる起源を持ち、異なる系統で伝えられてきたのだというわけです(以下本稿では、この假説を「別系統説」と呼ぶことにします)

 de Jongは、散文経典は仏教の主要な伝統を引き継ぐものであるが、韻文経典は仏教以前・非仏教的・仏教的の三種の要素が併存すると指摘しました。櫻部建は、散文経典は出家僧団の内部で釈迦牟尼仏の教えとして伝えられてきたものであり、韻文経典は在家・出家を問わず初期仏教社会に広く流通し愛唱されていたものであると述べています。村上真完や松本史朗は、韻文経典は苦行者文学(ジャイナ聖典)の流れにあり、仏教の独自性は散文経典のなかにこそ見られると指摘しました。馬場紀寿は、パーリ五部のうち、(『スッタニパータ』や『ダンマパダ』が含まれる)小部の成立が四部よりも遅いことに着目して、小部の韻文経典と四部の散文経典が異なる伝承形態だったと指摘しています。馬場は、『スッタニパータ』や『ダンマパダ』のような古い韻文経典が三蔵へと発展していったという単線的な図式は成り立たず、そこに三蔵の起源を見い出だすことには方法論的な問題があると指摘しています。

 実際、パーリ四部の散文経典には、韻文経典を批判している箇所すらあります。パーリ相応部には、次のような一節が出てきます。

 比丘たちよ、ちょうどそのように、未来の比丘たちはなるでしょう。かれらは、如来によって語られた、深遠な、深遠な意味のある、出世間の、空性に関わる諸経が語られているときには、聞こうとせず、耳を傾けず、了知の心を確立せず、またそれらの法を学ぶべきもの、習得すべきもの、と考えないのです。
 それに対して、かれらは、詩人によって作られた、詩からなる、美しい語の、美しい句の、外教の、弟子によって語られた、諸経が語られているときには、聞こうとし、耳を傾け、了知の心を確立し、またそれらの法を学ばれるべきもの、習得されるべきもの、と考えるのです。
 比丘たちよ、このようにして、如来によって語られた、深遠な、深遠な意味のある、出世間の、空性に関わる、これらの経が消滅することになります。

パーリ相応部20・7、片山一良訳『パーリ仏典 第三期4 相応部(サンユッタニカーヤ)因縁篇Ⅱ』大蔵出版、2014年、p.456-457 

 韻文の流行によって、正しい教えが衰えてしまうとまで言っているのです。また、パーリ中部のマーガンディヤ経という経典には、次のような非常に興味深い一説があります。ここでは釈迦は、マーガンディヤという修行者(この人は仏教徒ではありません)に対して、韻文を唱えて教えを説いています。

 そこで、世尊は、そのとき、つぎの感嘆の言葉を唱えられた。
    健康は最上の利得なり
    涅槃は最上の安楽なり
    八支は安穏不死に至る
    諸道において最上なり
と。
 このように言われたとき、マーガンディヤ遍歴行者は世尊につぎのように言った。
「不思議なことです、ゴータマ尊よ。珍しいことです、ゴータマ尊よ。ゴータマ尊がこのように、『健康は最上の利得なり、涅槃は最上の安楽なり』と、よくお説きになるとは。ゴータマ尊よ、私は、昔の遍歴行者である師と師の師たちが、このように、『健康は最上の利得なり、涅槃は最上の安楽なり』と、語っていたのを聞いたことがあります。ゴータマ尊よ、これはそれと一致します」と。

パーリ中部75、片山一良訳『パーリ仏典 第一期3 中部(マッジマニカーヤ)中分五十経篇Ⅰ』大蔵出版、1999年、p.391-392

 つまり、マーガンディヤという修行者によれば、ここで釈迦が唱えた詩と、仏教外の遍歴行者たちのあいだに伝わっている詩が一致するのだというのです。少なくとも、「仏教外の外道が保持している教えのなかにも、仏教の韻文経典と同じものが含まれている」という認識が、仏教の内部(少なくともマーガンディヤ経を編集した者)に存在していたことは間違いありません。先ほどから述べているように、『スッタニパータ』や『ダンマパダ』などの韻文経典には、ジャイナ教の聖典と共通する文言が多く含まれています。韻文経典は必ずしも仏教独自のものではないことや、仏教やジャイナ教などの当時の「新興宗教」のあいだで多くの詩が共有されていたと、マーガンディヤ経は物語っているかのようです。

「別系統説」によれば、散文の伝承こそが仏教のメインとなる流れであり、韻文の伝承はサブに過ぎなかったということになります。たとえ韻文経典の起源が古くても、仏教教団は当初それを重視していなかったということになります。ちなみに先ほど述べたように、元々経蔵は相応部・中部・長部・増支部の四部であり、小部というカテゴリーの成立は四部の成立よりも遅れることが多くの研究によって明らかになっています。そして『スッタニパータ』や『ダンマパダ』などの韻文経典は四部ではなく、小部に収録されています。「別系統説」でいくと、このような経典の編集状況も、韻文経典が仏教教団にとって傍流に過ぎなかったことを示すものだと考えられることになります。

 私は素人ですから、「別系統説」がどこまで妥当なものなのかを判断することはできません。しかし少なくとも、『スッタニパータ』は非常に古い経典ではあるにしても、扱いが難しいテキストであることは確かです。『スッタニパータ』には『ブッダのことば』と銘打った中村元による現代語訳があり、広く読まれています。もちろんそのこと自体は何ら悪いことではないのですが、これを読めば古い時代の仏教の実像や釈迦の肉声に近づけるのかというと、必ずしもそうとも言えないのです。

 馬場紀寿『初期仏教』(岩波新書、2018年)によれば、「布施」「戒」「四諦」「縁起」「五蘊」「六処」などの教えは、上座部大寺派・化地部・法蔵部・説一切有部・大衆部などの部派で共通して伝承されており、遅くとも紀元前後までに成立していたことは確実だそうで、これらの教えは大乗が登場する以前から存在していたそうです。しかし本書は同時に、現時点で紀元前3世紀以前の仏教について確実にわかっていることはほとんどないともしています。

 なぜかというと、客観的な文字資料が全くないからです。そもそも、仏教について語る最古の文字資料は紀元前3世紀のアショーカ王碑文であり、アショーカ王の時代以前には遡れません。ですので、少なくとも現時点では、紀元前3世紀以前の仏教について確実にわかっていることはほとんどありません。本屋や図書館に行けば、「お釈迦様の“ほんとうの”教えはこうだ!」などと主張する本をいろいろと目にすることができます。ですが残念ながら、少なくとも現時点では、それは学問的に厳密に再構成しうるものではありません。

 我々は現時点では、諸部派が共通して釈迦の教えだと称していたものを取り出すことは一応できますが、歴史上の釈迦の肉声に文献的に触れる手段はないのです。部派分裂以前の仏教を「原始仏教」と称することがありますが、ぶっちゃけ現時点で「原始仏教」なるものについて確実にわかっていることはほとんどありません。そういう問題があるから、私はこのnoteでも「原始仏教」ということばをほとんど用いなかったのです。

 以上のように、「歴史上の釈迦が説いた“オリジナルの”教え」は、ぶっちゃけ“よくわかっていない”し、確定的なことは言えないわけです。「釈迦の教えはこうだ」と語る膨大な量の言い伝えは現在まで伝わっていますが、そのなかから釈迦の確実な肉声を取り出すことには成功していないのです。釈迦の時代から数百年ものあいだ、その教えが口頭で伝承されてきたという事実はいかんともし難いわけです。

 我々がよく目にするフレーズに「お釈迦様は○○とお説きになられました」というのがありますが、これは厳密に言えば「お釈迦様は○○とお説きになった(と考えられている)」「お釈迦様は○○とお説きになった(と△△という経典には書かれている)」「お釈迦様は○○とお説きになった(と××というセクトでは信じられている)」「お釈迦様は○○とお説きになった(と私は信じている)」などの丸カッコを省略したものなのです(まぁいちいち「~とされている」「~と考えられている」などといったフレーズをつけ加えるのも面倒だということもあるのでしょうが)。

パーリ仏典をめぐる問題

 さて、今度はやや別の角度から、現在の上座部仏教圏に伝わっているパーリ三蔵について見てみましょう。現在我々が読むことができるパーリ三蔵のうち、(論蔵はともかく)経蔵や律蔵は紀元前の古い時代の形を保っているというイメージを持っている方もおられるかもしれませんが、必ずしもそうではありません。この問題について少し辿ってみましょう。

 かつて仏教学者の前田惠學は、『原始佛教聖典の成立史研究』(山喜房仏書林、1964年)を刊行して、1960年代初頭までの「原始仏教」研究を集大成しました。前田は、紀元前3世紀までに、パーリ三蔵の大半に当たる五部と律のほとんどが成立していたと想定しました。その後現在に至るまで、「原始仏教」なるものについていろんな人がいろんなことを言っているのを見かけますが、それらの多くは前田と同様の想定に立脚したものです。

 ところが1990年代以降に、紀元後1世紀から3世紀頃にガンダーラ語で書かれた仏教写本がアフガニスタンやパキスタンで大量に発見されると、このような想定に大きな疑問符がつくようになりました。というのも、もし経蔵や律蔵が紀元前の時点でまとまった形で成立していたのであれば、ガンダーラ写本にも経蔵や律蔵の存在が確認できるはずです。ところが、ガンダーラ写本には『ダンマパダ』などの個別の経典はいろいろと含まれてはいるものの、三蔵が現在のパーリ仏典のようなまとまった形で存在していたことを示す写本が確認できないのです。そのため、20世紀の「原始仏教」研究は写本や考古資料による裏づけを伴っていないことが明らかになり、経蔵や律蔵がまとめられ体系化されるのはかなり時代が下ってからである可能性も想定せざるをえなくなったのです

 また、かつて仏教学者のオスカー・フォン・ヒニューバー(1939-)は、文体の比較研究に基づき、我々が現在見ることができる律蔵は、仏典の書写が開始されてから編集されたものであると論じました[von Hinüber 1994]。もしこの説が正しければ、律の編集時期は紀元前後まで下ることを想定しなければならないでしょう。以上のように、パーリ経蔵やパーリ律というと、いかにも紀元前の古い時代からそのままであるかのようなイメージがあるようですが、そのようなイメージが正しいという証拠は実はなかったりします。パーリ三蔵に含まれるテキストの成立については、重要な点が不明なままです。

 ちなみに、先ほど申し上げたように、パーリ経蔵のうち小部というカテゴリーは、他の四部よりも成立が新しいと言われています。そして、小部に含まれている経典のうち、『小誦経』『天宮事経』『餓鬼事経』『譬喩経』『仏種姓経』『所行蔵経』『義釈』『無礙解道』は、対応する文献が他の部派に見つからないため、文献としての成立が新しいと考えられています。

 これらの文献の内容についてほんの少しだけ触れておくと、『仏種姓経』には、第11回で紹介した誓願や授記や波羅蜜といった大乗的な教えが説かれています。『譬喩経』にも、十方諸仏(第11回で紹介した、パラレルワールドにいろんな仏がいるという教えです)が説かれており、大乗的な内容が含まれています。パーリ三蔵にもこのような大乗的な内容は含まれており、現在の上座部仏教圏に「仏説」として伝えられているわけです。上座部大寺派(後ほど説明します)でも、(どういう経緯や経路を通じてなのかは不明ですが)後世の人によって新たに創作された経典を経蔵に編入するということが行われていたことは確実です。

 写本の問題について言うと、仏教学者の下田正弘(1957‐)は次のように指摘しています。

 K.R.ノーマンおよび O.フォン=ヒニューバによれば、現在利用可能なパーリ語の写本はほとんどが18世紀から19世紀という、きわめて近年のものである。しかもこれらの写本がどのような過程をたどって現在に至ったかほとんど情報がないため、近代以前の足跡は写本自身から知りえない。この点、漢訳の諸経典が古い時代――『道安録』を起点とするなら四世紀以降――より翻訳状況の記録とともに継承されていることに比すると、その歴史資料としての価値にはかなりの限界がある。
 一般に理解されているように、パーリ語仏典が紀元前の古代スリランカから始まって東南アジア全体に伝播したと仮定しても、伝承の系譜が不明な近代写本のテクストを根拠とし、それより二千数百年も前の古代インドの、マガダ地方という途方もなく離れた過去の空間と時間の一点を特定することは不可能であろう。

下田正弘「「正典概念とインド仏教史」を再考する――直線的歴史観からの解放――」『印度學佛敎學硏究』第68巻第2号、2020年、太字引用者

 パーリ仏典は、ヤシなどの植物の葉を加工して、紙の代わりに用いた貝葉に記されてきました(これを貝葉写本と言います)。

ヒンドゥー教の聖典である『バーガヴァタ・プラーナ』が記された貝葉写本

 貝葉写本の寿命は、南アジアの厳しい自然環境においては、およそ200~300年ぐらいだと言われています。現存するパーリ語写本のほとんどが非常に新しいのは、こういう事情によります。パーリ仏典さえ読めば、紀元前の古い時代の仏教のことがわかるのかというと、全くそんなことはありません。


インドにおける部派と大乗の共存

 さて、ここで少し視野を広げて、パーリ仏典だけでなく、説一切有部や大衆部や法蔵部といったいろんな部派が保持していた仏典も見てみましょう。有部や大衆部などの部派というと、大乗とは相いれないものであり、部派と大乗は相互排他的な関係にあったと漠然と思っている方もおられるかもしれません。しかし実際はそうでもないのです。

 いくつか例をあげましょう。真諦(6世紀にインドから中国にやってきて多くの仏典を訳した人です)の『部執異論疏』という書があります。この書には、大衆部について次のように言っています(厳密に言うと『部執異論疏』は現在は断片しか伝わっていません。『三論玄義検幽集』という文献に『部執異論疏』を引用している箇所があり、今でも部分的に読めます。以下は、『三論玄義検幽集』に引用された『部執異論疏』の一節です)。

 この部は『華厳経』『涅槃経』『勝鬘経』『維摩経』『金光明経』『般若経』などの諸大乗経を引用していた。この部の内部においては、これらの経を信ずる者もいたし、これらの経を信じない者もいた。信じない者の場合、そしって「『般若経』などの諸大乗経なんてものはない」と言い、「これらの経は常人が作ったものであり、仏説ではない」と言い、[大乗経を]ことごとく選り分けて一箇所に置いた上で、ふたたび三蔵という根本に依拠し、それ(三蔵)を執着して用いていた。

大竹晋『大乗非仏説をこえて』国書刊行会、2018年、pp.37-38

 大衆部という部派では大乗経典が流通しており、それを信じる者も信じない者もいたというのです。大衆部で大乗経典が流通していたという証言は他にもいくつもあります。7世紀に唐からインドへ留学した玄奘(602-664)が残した『大唐西域記』という旅行記には、大衆部の仏典結集に関するこんな伝承が述べられています。

 そこで凡僧も聖僧も悉く会合し、愚者も智者もみな出席し、ここでも素呾纜藏・毗柰耶藏・阿毗達磨藏・雜集蔵・禁呪蔵を集成し、別に五蔵とした。そしてこの結集は凡聖両衆が会同したので、これを大衆部[の結集]と言う。

水谷真成訳注『大唐西域記 3』東洋文庫、1999年

 ここで玄奘は、大衆部の「五蔵」について述べています。大衆部では、経蔵・律蔵・論蔵だけでなく、そこに雜集蔵と禁呪蔵を加えた五蔵を保持する流れがあったと証言しているのです。

 このような証言を残しているのは玄奘だけではありません。東山部と西山部(大きく見れば大衆部の系統の部派です)では「七蔵」を伝承していました[馬場2022: p.50]。この七蔵は、経蔵・律蔵・論蔵に菩薩蔵・禁呪蔵・方広蔵・本生蔵を加えたものです。また、先ほどの『部執異論疏』には、法蔵部について述べた箇所もあって、法蔵部には経蔵・律蔵・論蔵・呪蔵・菩薩蔵があったと言っています(大正新脩大蔵経第70巻)。「菩薩蔵」や「方広蔵」が大乗経典を指すのであれば、これらの部派には大乗経経典が流通していたことになります。

 さらに、インドで最大の部派の一つだった有部についても見てみましょう。現在のパキスタン北部のギルギットでは、『八千頌般若』や『二万五千頌般若』や『法華経』や『三昧王経』などの大乗経典の写本が発見されています。そして、オスカー・フォン・ヒニューバーらの近年の研究によって、これらの写本は『根本説一切有部律』(有部の系統で保持されていた律です)の写本とともにつくられたものであることが明らかになっています[von Hinüber 2012]。つまり、ギルギットで有部に属していた出家者たちが大乗経典を信奉していたことが証明されたのです。

 さらに、かつてのインドに存在していた教団については次のような証言もあります。5世紀の初頭に、中国からシルクロードを通ってインドに行って、仏典を入手して海路で中国に帰ってきた法顕(337-422)という人がいます。法顕が書き残した旅行記である『法顕伝』をひもとくと、西北インドの羅夷国には「三千人の僧がおり、大小乗学を兼学している」(長沢和俊訳注『法顕伝・宋雲行紀』東洋文庫、1971年、p.52)とあります。同じく西北インドの毗荼国でも「仏法が盛んで、大小乗学を兼ねている」(同p.52)と記されています。また、中インドの僧伽施国についても、「僧尼がほぼ千人ほどおり、みな食事をともにし、大小乗学を雑え学んでいる」(同p.63)ととあります。このように法顕は、部派と大乗の両方を一緒に学ぶ地域があったと記しているのです。

 また法顕は、中インドのパータリプトラにある「摩訶衍の僧伽藍」で、大衆部の律である『摩訶僧祇律』を得たとも言っています。摩訶衍というのは大乗のことです。法顕が中国に持って帰ってきた『摩訶僧祇律』は、大乗を信じる人々が用いていたわけです(「」内の現代語訳はより引用)。

 これは、7世紀前半にインドに行った玄奘も同様です。玄奘の『大唐西域記』にも、部派と大乗を兼学している場所がインドのあちこちにあったことが記されています。玄奘は、南インドのカリンガ国について、「伽藍は十余ヵ所、僧徒は五百余人、大乗の上座部の教えを学習している」と記しています(水谷真成訳注『大唐西域記 3』東洋文庫、1999年、pp.232-233)。西インドのバルカッチャパ国については、「伽藍は十余ヵ所、僧徒は三百余人で、大乗と[小乗の]上座部の教えを学習している」と記しています(同p.307)。同じく西インドのスラーシュタ国について、「伽藍は五十余カ所、僧徒は三千余人、多くは大乗[と小乗]上座部の教えを[兼ねて]学んでいると記しています(同p.324)。さらに、ブッダガヤー(釈迦が35歳で「覚り」をひらいたとされる場所です)にあったスリランカ仏教の拠点である摩訶菩提僧伽藍では、「大乗上座部」の教えを学習していたと記しています(同p.102)。スリランカでも部派と大乗が兼学されていたことが記されています(同p.289。このスリランカの状況についてはまた後ほど触れます)。『大唐西域記』には、インドのあちこちで部派と大乗が兼学されていたことが記されていますが、大乗を兼学する部派として名指しで言及される部派は上座部が多いです。このように、上座部に属して大乗も学ぶ出家教団が数多く存在していたのです

 さらに、7世紀後半にインドに留学した義浄(635-713)が残した旅行記の『南海寄帰内法伝』も見てみましょう。『南海寄帰内法伝』にはこんな興味深い証言があります。

 (さて、インド仏教の現勢について触れておく。前述の如く現在インドで優勢な大衆部・上座部・根本説一切有部・正量部の)其の四部(派)の中で、大乗と小乗の区分は定まっていないのである。

宮林昭彦・加藤栄司訳『現代語訳 南海寄帰内法伝』法蔵館文庫、2022年、p.54

 この一節のすぐ後で義浄は、端的にこう言っています。

 もし菩薩を礼(拝)して大乗経を読(誦)するのならば、これを大(乗)と名づけるのであり、斯のこと(①礼拝菩薩と②読誦大乗経)をしなければ之れを小(乗)と号ぶ(という、ただそれだけの事な)のである。

同前、pp.54-55

 つまり、部派と大乗の違いは個々人の行為であって、教団の違いではないというのです。部派の教団と大乗の教団がそれぞれ別々に排他的に存在しているわけではないのだというわけです。

 チベットには、異なる宗派の僧侶が雑住している例がいまでもある。私が長年にわたって研究してきたペンコルチューデは、中央チベット西武の街、ギャンツェにある巨大寺院だが、ゲルク派・サキャ派・シャル派の三派が共存している。最近の研究によれば、かつてのインドでも、仏教寺院には、異なる宗派どころか、正統派(上座仏教)と大乗仏教(顕教)と密教が共存していたことがわかっている。
 すなわち、ある時点まで、仏教寺院としては、異なる宗派が共存するのがむしろ通常の形態であり、唯一の宗派しか存在しないのはかなり特異な形態だったと考えたほうがよい。

正木晃『空海をめぐる人物日本密教史』春秋社、2008年、pp.220-221

 東アジア仏教圏に属する日本で暮らしている私たちには馴染みが薄いかもしれませんが、仏教は「経典(思想信条)中心の仏教」と「律(行動規範)中心の仏教」の二つに大別されます。そして、私たちの東アジア仏教が前者の「経典中心の仏教」に属しているのに対して、インド仏教は後者の「律中心の仏教」に属しています。この、インド仏教に代表される「律中心の仏教」では、律の規定に従っている限り、沙門個人がどのような経典を信奉していても構いません。
 たとえば、『阿含経』を信奉する沙門も、『阿弥陀経』を信奉する沙門も、『法華経』を信奉する沙門も、彼らが律を遵守して行動し生活している限り、何の問題もなく共存できます。この事実は、「どの経典を信じるか」「どの経典が一番か(教相判釈、教判)」が問われ、「教義・信奉する経典を異にする者たちとは一緒にいられない」ということが半ば常識であった、「経典中心」の東アジア仏教圏の私たちには、なかなか信じることができなかったのです。
 実は、昔の求法僧の記録(法顕の『法顕伝』五世紀、玄奘の『大唐西域記』七世紀、義浄『南海寄帰内法伝』七世紀)が「インドでは大乗の徒と小乗の徒が共存している」と伝えてくれていました。しかし、「大乗は小乗を悪し様に言っている。だから、大乗仏教徒と小乗仏教徒が共存できるわけがないじゃないか!」という思い込みがあったのでしょう。せっかくの貴重な報告も、長年にわたってほとんど顧みられることがなかったのです。

鈴木隆泰『仏典で実証する 葬式仏教正当論』興山舎、2013年、pp.51-53

 以上のように、インドでは部派と大乗は相互に排他的な関係にあったわけではないのです。もちろんこれは、部派全体が大乗を容認していたということではありません。しかし、部派の内部に、大乗の居場所があったことは確かです。インド各地の複数の主要な部派に、大乗を信奉する人々が所属していたことは間違いありません。

 ここで重要なのは、インドのどこを探しても、三蔵の範囲をビシッと確定した部派は見られないということです。それどころか、部派によっては菩薩蔵や呪蔵といったカテゴリーまで存在しており、五蔵や七蔵が成立していました。「ここからここまでが“ほんとうの”『仏典』の範囲であり、それ以外はニセモノだ」と主張したり、権威ある「仏典」の範囲を排他的に確定し固定化しようとした部派は、インドのどこにも見られないのです。大乗を排除して三蔵の範囲を確定した部派は、インドには認められません。

大寺派という「特異な」分派

 さて、ここまでくれば現在の東南アジアで行われている「上座部仏教」と呼ばれる仏教にまつわる話を始めることができます。これまでに述べてきたことを踏まえた上で見ていきましょう。

「歴史書」の創作

 現在の東南アジアに広がっている「上座部仏教」と呼ばれる仏教は、大きく見れば、上座部大寺派という一派の系統に属しています。上座部大寺派というのは、スリランカで活動していた部派です。この上座部大寺派系統の仏教が、13世紀以降にタイやラオスやカンボジアなど東南アジアの各地で導入されるようになりました。この流れの仏教が、“様々な紆余曲折を経て”、現在まで伝わっているのが、今日の我々が「上座部仏教」とか「テーラワーダ仏教」と呼んでいる仏教です。それでは上座部大寺派というのはどこからきたのかというと、分別説部という上座部系統の一派がインドからスリランカに伝わったものだとされています。

 この点については、スリランカに伝わる『島史』『大史』という「歴史書」があります。『島史』はスリランカの最古の「歴史書」で、4世紀頃に成立し、『大史』はそれにやや遅れて成立したと言われています。『島史』や『大史』は、日本で言う『古事記』や『日本書紀』のようなものだとざっくり思っていただいても大丈夫かと思います。

『大史』は、4世紀始めまでのスリランカの歩みを描いています。『大史』の続編の『小史』という「歴史書」もあり、4世紀から19世紀はじめまでの歴史を語っています。『小史』は、長い時間をかけて多くの人々によって書き継がれてきた作品であり、何度も編集され直しています(後に書き継がれていった『小史』の部分も含めて『大史』と呼ぶこともあります)。

 ただし『島史』や『大史』は、釈迦の正しい教えは上座部にのみ伝わっているという立場で書かれています。例えば『島史』第5章には、上座部から分離した他部派はすべて、仏典の一部を削除したり改変したりしたと書いてあります。『島史』も『大史』も、自分たちこそが“正統”であって、大衆部も化地部も法蔵部も有部もすべて“正統”ではないという立場で書かれているのです。ですので『島史』も『大史』も、単に過去の出来事を記したものではなく、上座部大寺派が“正統”であることを主張しようとした書物だということには注意する必要があります。

『大史』によれば、(西暦で言うと)紀元前のインドでアショーカ王の時代に、教団の乱れを正すために「第三結集」なるものが行われて、「分別説」(パーリ語でvibhajjavāda)が守られ、その流れがスリランカに伝えられたことになっています。そのため、スリランカ上座部のことを「分別説部」とも言います。

 ただし、アショーカ王の時代に第三結集が行われたという記事は、他の部派の資料には一切登場しません。仏典の結集という出来事については、釈迦が亡くなった直後に行われたとされる第一結集や、そこから時代が下ってから行われた第二結集は各部派で説かれています。しかし、アショーカ王のもとで三回目の仏典結集が行われたという記事は、4世紀まで成立が下る『島史』や、『島史』の少し後に成立した『大史』といったスリランカ上座部の資料にしか登場しないのです。そのため、この第三結集は全くの虚構であると言う研究者もいます。

 ところで、上座部はスリランカだけにあったわけではありません。上座部はインド本土にも勢力を有していました。例えば、南インドのアーンドラ地方には上座部の一派があり、スリランカの上座部大寺派とは系統の異なる仏典を伝承していました。Kieffer-Pülzは、アーンドラ地方の律注釈を分析し、アーンドラ地方の上座部の仏典は大寺派の仏典とかなり近いものの、重要な点で異なっていることを明らかにしています。このアーンドラ地方の上座部は、5~6世紀頃にビルマのピュー王国や南インド東岸のカーンチーに進出しました[馬場 2022: p.107,p.285]。

 インド本土には、スリランカに伝わった系統とは異なる仏典を保持していた上座部もあったわけで、スリランカに伝わった分別説部だけが上座部だというわけではありません(ちなみに『島史』や『大史』は、こういったインドに存在していた上座部には言及しません)いずれにせよ、現在東南アジアで行われている「上座部仏教」の起源となったスリランカの上座部大寺派は、あくまでも様々に枝分かれした部派のなかの分派の一つです。この部派だけが、歴史上の釈迦が説いた“オリジナルの”教えを忠実に伝えているという根拠が特にあるわけではありません。

スリランカに存在していた大乗仏教と密教

 さて、スリランカではインドから仏教が伝わって以来、大寺派の仏教しか存在してこなかったわけではありません。まず無畏山寺派が大寺派から分派して成立し、さらに時代が下ると、祇多林寺派が分離しました。かくしてスリランカの王都のアヌラーダプラでは、大寺派・無畏山寺派・祇多林寺派の三派がお互いに競合する状況が12世紀に至るまで続いていくことになります(ちなみに、大寺・無畏山寺・祇多林寺というのはそれぞれ、この三派の本拠地となった僧院の名前です)。

 ところで、無畏山寺派や祇多林寺派では大乗経典が仏説として認められており、大乗の信仰が盛んでした。例えば祇多林寺跡からは、初期大乗経典の『二万五千頌般若』が書かれた写本が1982年に発見されています。スリランカ北部のミヒンタレー山のふもとで発見された8~9世紀頃の銅板文書にも、『二万五千頌般若』からの引用があることがわかっています。

 無畏山寺派についても見てみましょう。1940年代に無畏山寺跡で発見された銘板には、密教経典の『金剛頂経』の陀羅尼や『宝篋印陀羅尼経』の陀羅尼が刻まれていることがわかっています。密教経典が信奉されるだけでなく、密教僧も活躍していました。例えば、ヴァジュラヴァルマンというスリランカの僧は、チベットに渡って『一切悪趣清浄タントラ』(『金剛頂経』系統の密教文献です)に対する注釈書を書きました。ジャヤバドラというスリランカの僧も、密教文献を書いています。

 さらに、唐からスリランカにやってきて密教を学んだ不空(705-774)という有名な人がいます。不空は弟子たちを伴ってスリランカに渡り、普賢阿闍梨という密教僧のもとで学び、密教経典を得て帰国しました。この不空の弟子の一人に恵果(746-805)という人がいて、恵果の弟子が皆さんもご存じのあの空海(774-835。生年は773年説もある)です。ですので不空はその後の日本の密教にも大きな影響を与えています。ちなみに不空は帰国後、玄宗皇帝に謁見し、スリランカ国王の「尸羅迷伽」から預かった『般若経』を献上しています。この「尸羅迷伽」というのは、スリランカ王のアッガボーディ6世のことです。というのも、アッガボーディ6世は「シラーメーガヴァンナ」という異名を持っていたと『小史』に記されているからです。以上のようにスリランカでは、『般若経』が広く支持されていたことや、密教が行われていたことや、王室が大乗を援助していたのです。

大寺派の三蔵観

 そういうわけで、スリランカの上座部においても、無畏山寺派や祇多林寺派では大乗や密教が受け入れられていました。先ほど述べたように、玄奘は『大唐西域記』で、インドの各地にもスリランカにも上座部と大乗を兼学する出家教団が存在していたと言っています。玄奘のことばを借りれば、「大乗上座部」がインドとスリランカに広がっていたわけです。

 また、これも先ほど申し上げたことですが、「ここからここまでが“ほんとうの”『仏典』の範囲であり、それ以外はニセモノだ」と主張したり、権威ある「仏典」の範囲を排他的に確定し固定化しようとした部派は、インドのどこにも見られません(部派によっては菩薩蔵や呪蔵といったカテゴリーまで存在しており、五蔵や七蔵が成立していた)。この点はスリランカの無畏山寺派や祇多林寺派も全く同じであり、大乗経典や密教経典も排除することなく受け入れていました。インドでもスリランカでも、ほぼすべての部派が、大乗を排除して三蔵の範囲を確定したり固定化したりしようとはしなかったわけです。

 ところが、このような状況にあって、仏教世界全体から見れば「極めて特異な」ムーヴに打って出た一派がありました(それが良いか悪いかはともかく)。それが上座部大寺派です。大寺派は、大乗を排除して、三蔵の範囲を明示したのです。大寺派がこのような方向に舵を切った背景の一つだけあげておくと、その特異な三蔵観があります。大寺派では、結集において認められた教えがそのまま三蔵に収録されているという立場をとります。大寺派では、結集を三蔵編集会議だと考える傾向が極めて強いのです。

「結集で正しい教えだと認められたものが三蔵に収録されるのは当たり前のことではないか」と思われるかもしれませんが、そうでもありません。他の部派を見ると、結集というイベントと三蔵の中身は必ずしも結びついていないのです。例えば有部の文献では、結集の際に三蔵が編集されたと明確に言っているのは第一結集だけです。しかも有部では、第一結集で三蔵がすべて成立したとは考えられていませんでした。有部の論蔵には、釈迦の後世の人物による作品として伝承されてきた書物も含まれているからです。さらに言うと有部の文献には、こういった後世の人物が書いた論書がどういう経緯で論蔵に加えられたのかといった話も出てこないのです。有部では、結集において認められた教えが教えがそのまま三蔵を構成しているとは考えられていないし、そもそも三蔵の範囲を決めるイベントのようなものも想定していないのです。

 この問題は、仏教世界で広く説かれる「隠没」と呼ばれる歴史観とも絡んできます。隠没というのは、時代とともに仏教が衰退して三蔵が失われていき、やがて三蔵はすべて失われてしまうという見方のことです。隠没は広く仏教世界に見られる考え方です。仏の説いた教えであっても、原因によってつくられたものである以上は無常であり、いつかは滅ばざるをえないというわけです。

 そして有部は、釈迦が亡くなった後にすぐにその教えが隠没し始めたと考えるのです。例えば有部の文献には、増一阿含経は元々は一法から百法まであったんだけど、現在では十法までしか残っておらず、しかもその一法から十法のなかでも既に多くのお経が隠没してしまっていると書いてあるものもあります。有部には、自分達の手元にある三蔵は不完全なものであるという三蔵観があるわけです。有部が三蔵の範囲をビシッと確定したり固定化しようとしなかった理由としては、以上のような背景が考えられます。有部の立場でいくと、三蔵は現在進行形で失われ続けていることになりますから、三蔵の範囲はここからここまでだと確定するのは不可能だということになるからです。

 しかし、大寺派の隠没観は有部のそれとは全く異なっていました。大寺派では、隠没というのは未来に起きる出来事だと考えられていたのです。逆に言えば、隠没はまだ始まっておらず、三蔵には釈迦が説いた教えが全く欠けることなく伝えられているということになります。そして先ほど述べたように、大寺派においては結集は三蔵編集会議であり、結集で認められた内容がそのまま三蔵を構成していると考えられています。ということは大寺派では、結集によって確定された三蔵が、何一つとして隠没せずに完全な姿のまま大寺派に伝わっていると考えられていることになります。

 一例をあげましょう。大寺派に伝わっているこんな伝説があります。ヴァッタガーマニー・アバヤという王様(紀元前1世紀)の時代に、ティッサというバラモンが反乱を起こし、その混乱によってスリランカの仏教が滅亡の危機に瀕したそうです。そこで比丘たちは三蔵を存続させるために、危機が去るまでセイロン島から避難したそうです。そして危機が去った後に、島外から帰還した比丘たちが島に残った比丘たちと合流して、お互いに自分達が記憶していた三蔵を確かめあったところ、その一言一句までもが一致していたというのです。この伝説からは、三蔵こそが仏の教えの根幹であり、それは何一つ欠けることなく現在まで伝わっているという信仰がうかがえます。このような三蔵観は、釈迦が亡くなってからすぐにその教えが隠没し始めたという有部の三蔵観と全く異なっています。

 ともあれ、大寺派においては結集で認められた内容がそのまま三蔵を構成していると考えられていることになります。そうすると、三蔵に新たに仏典を追加するためには、結集を行って承認を得なければならないことになります。でも、大寺派は新たに結集を行って仏典を三蔵に追加していく方向には進みませんでした。ここには、5世紀の大寺派に出現したブッダゴーサという注釈者も絡んでいます。この人は、後世に至るまで大きな影響を与えた大学者です。ブッダゴーサは、三蔵編集会議を、(既に開催された)三度の結集と規定しました。つまり、“タテマエとしては”、今後結集が行われたとしても、そこで三蔵を拡大することはできないことになったのです。かくして、大寺派は新たな教えを三蔵に加える口実を一つ失いました。いずれにせよ大寺派は、「三度の結集によって三蔵が完成し、それは一言一句たりとも欠けることなく伝えられてきている」という三蔵観を抱くことになったのです。以上のような、仏教世界全体から見れば「特異な」三蔵観を抱いた部派は、大寺派以外には存在しません。このような特異な三蔵観を抱いた大寺派は、大乗を排除する方向に進んでいくことになったのです。

11世紀の分岐点

 そういうわけでスリランカでは、大乗経典や密教経典を受容する無畏山寺派や祇多林寺派と、大乗経典を排斥する大寺派が競合する状況が続いていくことになります。この状況に大きな変化が生じたのが11世紀です。南インドのチョーラ朝という王朝が10世紀にスリランカに進軍し、11世紀前半には都のアヌラーダプラが陥落しました。それ以後、チョーラ朝がスリランカ北部を支配する状況が数十年に渡って続いていくことになります。アヌラーダプラは大寺や無畏山寺や祇多林寺があった場所で、スリランカ仏教は大きな打撃を受けることになりました(その一方、チョーラ朝の王家が信奉していたヒンドゥー教のシヴァ派がスリランカに勢力を広げました)。その後11世紀の半ばに、ヴィジャヤバーフ1世という王様が、チョーラ朝の勢力をスリランカから一掃して、アヌラーダプラを奪還しました。

『小史』は、ヴィジャヤバーフ1世がスリランカを統一した後に、仏教教団を改革したと語っています。『小史』第60章にはこんな一節があります。

 またさらに、教の確立を図るヴィジャヤバーフ王(1055-1110)は、[当時、南インドのチョーラ国との戦いによって疲弊し]受戒の儀式(the ceremony of admission into the order)に必要な[5人の]長老比丘が[ランカー島内に]いなくなっていたので、教の存続を願う王は、王の友であるラーマンニャ国[下ビルマ]のアヌルッダ/アノーヤター王(1044-1077)の許に、贈り物とともに使節を派遣して、ラーマンニャ国から三蔵に精通した、持戒堅固で徳の高い長老をランカー国に招聘した。

竹内雅夫訳『チューラヴァンサによる続スリランカ仏教王国記』星雲社、2013年、p.149、太字引用者

 ヴィジャヤバーフ1世が、スリランカから仏教を再興するためにミャンマーから出家の伝統を再導入したのだというわけです。ここに出てくる受戒というのは、正式な比丘(尼)になる上で必ず行わなければならない儀式です。つまり、仏教が壊滅的な状態に陥り、受戒の儀式によって正式な比丘(尼)を自前で生み出すこともままならなくなってしまったから、ビルマから仏教を再導入したというのです。すなわち、上座部大寺派こそが釈迦の教えを忠実に守っている“正統な”仏教だと主張する『小史』が自ら、大寺派では出家者の戒の系譜が途絶えてしまったと語っているのです。

 当時のビルマのパガン朝(11世紀中頃に建国されたビルマ最初の統一王朝です)では、パーリ仏典とともに大乗経典が伝わっており、密教も広まっていました。ここでは深入りしませんが、現在まで残るパガン遺跡を見れば、パガン朝の文化が決して上座部仏教だけだったのではなく、大乗からも密教からもヒンドゥー教からも強い影響を受けた複雑な混淆文化であったことは明らかです(興味がある方は、大野徹『謎の仏教王国パガン』(NHKブックス、2002年)という本を一読することをおすすめします)。当時のビルマの上座部でも、インド本土の上座部やスリランカの無畏山寺派や祇多林寺派と同じように、大乗や密教が広まっていたわけです。『小史』に従えば、スリランカは、そのビルマから“伝統”を再導入したことになります。

 さて、『小史』によればその後(西暦で言うと)12世紀に、パラッカマバーフ1世という王様が主導して、仏教教団を改革したそうです。このとき無畏山寺派と祇多林寺派は、大乗を排除する大寺派に併合されて、大寺派だけが生き残ることになりました。かくしてスリランカの出家教団では、大乗が排除されることが決定的になったのです。『小史』第78章には、次のようにあります(アバヤギリというのは無畏山寺派のことで、ジェータヴァナは祇多林寺派で、マハーヴィハーラは大寺派です。ヴェートゥッラピタカというのは大乗経典の集まりを意味すると考えられます)。

「仏説ではないヴェートゥッラピタカ(方広説の三蔵)、その他を仏説である」と説き、修行を避けたジェータヴァナに属する比丘たちを、パラッカマバーフ王は、すべてにおいて優れているマハーヴィハーラ所属の比丘たちと同様にしようと、さながら種々の宝石と玻璃珠[水晶珠]を合わすかのように和合させようととりかかったのである。
 しかしそのとき、[アバヤギリに属する比丘たち、またジェータヴァナに属する]比丘たちは、持戒その他、重要な徳を欠いていたので、大僧団[マハーヴィハーラの比丘]、ならびに王の威光をもってしても、釈尊の教えに喜びを見出すことがなかった。
 一方、正法を熟知した人々とともにいるパラッカマバーフ王は、[アバヤギリに属する比丘たちと、ジェータヴァナに属する比丘たちを]調査させたところ、ただ1人の高潔な受戒僧をも見出せなかったので、多くの比丘たちを[見習僧の]沙弥に降格させ、破戒僧を還俗させ、彼らには利のある地位[官職]を与えた。
 パラッカマバーフ王は、大きな痛みをともないつつも、短時間のうちに、サンガ[僧団]の浄化と和合を達成し、再び、サンガをさながら、釈尊在世の時代のようにした。

同前、pp.308-309

 このように、パラッカマバーフ1世は無畏山寺派と祇多林寺派の比丘を沙弥(見習僧)に格下げしたり、還俗させて追放したりして教団を粛正したというのです。ちなみに、その後編集された『サーラサンガハ』という大寺派の文献では、『宝積経』や『金剛頂経』や『チャクラサンヴァラ・タントラ』を名指しして、仏のことばではないと言っています。スリランカに広まっていた大乗経典や密教経典に、仏が説いたものではないという烙印が押されたのです。

『小史』では、ヴィジャヤバーフ1世とパラッカマバーフ1世は、仏の教えを興隆させた理想的な王として描かれています。世俗の世界の王様が出家教団に介入したことを称賛しているのです。しかし、元々仏教のサンガ(仏教僧団)というのは、律蔵で定められた出家者の自治組織でした。出家者が、世俗の世界の王権による政治介入を推奨したり称賛したりするのは、自治の理念に反しています。しかし、大寺派はここで、世俗の世界の王様がサンガに介入することを積極的に認める方向に進んだのです。

小史』が語る物語がどこまで歴史的事実なのかという話はともかく、『小史』は、ヴィジャヤバーフ1世やパラッカマバーフ1世を理想的な王として描くことを通じて、出家の世界と世俗の世界との関係を新たに構築しました。つまり、サンガ(僧団)が衰退した場合には、王様が出家の伝統を他国から再導入したり、「異端」を追放したりしてサンガを粛正するというモデルケースを生み出したのです。言い換えれば、「異端」を追放し出家教団を改革する手だてが王様に与えられたことになります。それまでの仏教世界にはなかった王権と出家教団の新たな関係が成立したのです。

 ともあれ、以上のようにしてスリランカの出家教団は、大乗を排除する大寺派だけが生き残ることになりました(ただし、出家教団からは大乗経典が排除されたものの、その後もスリランカでは大乗に由来する信仰が形を変えて生き延びていきました。一例をあげると、13世紀以降にも菩薩の化身だと信仰された王様がいますし、観音菩薩を守護神として信仰する文化も生き続けました)。この大寺派の仏教が、東南アジアの各地に輸出されていくことになります。この流れの仏教が、“様々な紆余曲折を経て”、現在まで伝わっているのが、「上座部仏教」とか「テーラワーダ仏教」と呼ばれる仏教です。

 大寺派の東南アジアに広まると、サンガが危機に陥った際には、王様が介入して出家教団を粛正したり、他国から出家の伝統を再導入したりといったようなムーヴが、各国で見られるようになります。

 例えば、ビルマのペグー朝という王朝では、15世紀にダンマゼーディという王様が、仏教教団を改革しました。ダンマゼーディは、スリランカに比丘を留学させて受戒させることで出家の伝統を再導入し、大寺派を“正統”だとして、分裂抗争していたサンガを粛正しました。『小史』に描かれたヴィジャヤバーフ1世やパラッカマバーフ1世というモデルケースにならって、仏教教団を改革したのです。『小史』が確立した教団改革のモデルは、後世の歴史に大きな影響を与えたわけです。

石井モデル――正法・王権・僧伽

 かつてタイ研究者の石井米雄(1929-2010)は、タイの政治と宗教の関係を図式化したモデルを提示しました。石井は、タイの伝統的な社会構造は、正法・王権・僧伽(サンガ)の三元構造によって成立していると論じました。つまり、王権が僧伽を支援して物質的な基盤を与え、僧伽は正法を保持し、正法は王権を正統化するという三元構造になっているのだというわけです。この石井モデルは、東南アジア研究者のあいだで総じて高く評価されています。

 石井モデルは、元々タイの政治と宗教の関係を論じるためのものですが、『小史』が新たに打ち出した王権と仏教の関係のモデルとよく似ています。石井モデルを微調整して、「サンガが危機に陥った際には、王様が介入してサンガを粛正したり、他国から出家の伝統を再導入したりする」という要素をつけ加えて、タイ一国だけでなく上座部仏教圏の国々を含めた多国間モデルにすれば、『小史』が打ち出した新たなモデルとほぼ同じです。実際、正法・王権・サンガという三元構造はタイのみならず、スリランカでも基調となって続いてきたと言えます。そして、「サンガが危機に陥った際には、王様が介入してサンガを粛正したり、他国から出家の伝統を再導入したりする」ということが、その後のスリランカやビルマで行われていったのです。

 ここで注意しなければならないことがあります。それは、この正法・王権・サンガという三元構造には、在家は含まれていないということです。スリランカでは、「サンガが危機に陥った際には、王様が介入してサンガを粛正したり、他国から出家の伝統を再導入したりする」ということが繰り返されてきました。仏教がピンチに陥った場合は、そうやってサンガを刷新してきたわけです。重要なのは、ここにはサンガを刷新するという発想はあっても、在家のあり方を改革するなどという発想はないということです。つまり、スリランカ仏教の伝統においては、仏の教えを保っていく責任は、在家ではなくサンガに属する出家者たちにあるのです。その点では在家は埒外に置かれているのです。このことは本稿で次回以降に扱う問題と密接に絡んでくるので、ここで是非とも覚えておいていただければと思います。

サンガの途絶と再導入

 ともあれ、その後のスリランカでも、出家教団を他国から再導入するということが行われています。16世紀のはじめ以降、西洋列強によるスリランカの植民地化が進むと、仏教やヒンドゥー教は弱体化していきました。そこで仏教を復興するために、16世紀の末頃にヴィマラダンマスーリヤという王様が、ビルマから比丘をスリランカに招きました。また、17世紀末のヴィマラダンマスーリヤ2世も、同じくビルマから比丘を招いています。このように二度に渡ってビルマから支援を受けたにもかかわらず、18世紀前半にはサンガ(僧団)が途絶し、授戒の儀式を行うことも不可能になってしまいました。スリランカでは、正式な比丘(尼)を自前で生み出すことができなくなり、正式な出家者の戒の系譜が完全に途絶えてしまったのです。

 この状況が一年や二年ではなく長い間続いたのですが、1750年代に、キールティ・スリー・ラージャシンハという王様が、タイのアユタヤ王朝から比丘を派遣してもらって、仏教をタイから「再輸入」することでサンガを再建しました。このときに成立したのがシャム派です。シャム派は、現在のスリランカ仏教で最も勢力が大きい一派となっています。

 ただしシャム派は、スリランカの最上位カーストであるゴイガマの人々にしか出家を認めていません(ゴイガマは、耕作民を出自とするカーストです)。その後、ゴイガマを優遇するシャム派に反発する人々によってビルマから出家の伝統が再導入されて、アマラプラ派とラーマンニャ派が成立しました。シャム派・アマラプラ派・ラーマンニャ派は、現在もスリランカで存続しています
 
 なお、橘堂正弘(1936-)は、現在でもシャム派の幹部は、ゴイガマのなかでも特に高い地位にあるラダラという階層によって占められていると指摘しています[橘堂1995: p27-44]。先ほど取り上げた『スッタニパータ』の第650偈には、釈迦が説いたとされる次のような有名なことばがあります。

 生れによって<バラモン>となるのではない。生れによって<バラモンならざる者>となるのでもない。行為によって<バラモン>なのである。行為によって<バラモンならざる者>なのである。

中村元訳『ブッダのことば』岩波文庫、1984年、pp.140-141

 スリランカで実際に観察される仏教は、彼らが保持しているパーリ経典が語る世界と必ずしも一致しないということは知っておいていただきたいと思います。

 ともあれ東南アジアでは、各国で相互に出家教団を再導入しあうことで、多くの人々の努力によって幾度にも渡る危機を乗り越えて、どうにかこうにか現在まで仏教を伝えてきました。スリランカも、サンガの途絶や戒の系譜の断絶を経験しており、タイやミャンマーから仏教を「再導入」することで教団を復活させたりしてきたわけです。そうやって“伝統”を再創造してきたのです。インドから仏教が伝わって以来、仏教が絶えることなく守られ続けてきたというわけではありません。

 周知のようにスリランカ仏教は南方上座部分別説部の伝統をひく、もっとも由緒正しい伝統仏教だと認識されている。ただ、このような「伝統」が必ずしも歴史的連続性を意味しないように、スリランカの上座部仏教の伝統も、すでに紀元三~五世紀には大乗仏教の影響をうけて一時衰退し、一二世紀ごろからの政治的混乱によって僧伽も混乱をきわめた。その後コーッテ王国(一三七二~一五九七)時代に仏教王権中興の祖というべきパラークラマバーフ六世(Parakramabahu Ⅵ, 1411-1466)によって復興したが、一六世紀からはキリスト教の影響をうけてふたたび衰退が始まり、一八世紀にはついに僧伽そのものが消滅するような事態も迎えている。要するに現在のスリランカ仏教は、上座部仏教の伝統を再構築した仏教ではあっても、最古の仏教伝統をそのまま伝えているものではなく、それはただのブランドにすぎない

杉本良男『仏教モダニズムの遺産 アナガーリカ・ダルマパーラとナショナリズム』風響社、2021年、p.63、太字引用者


「ほんもの/にせもの」「正統/異端」を越えて

 さて、話が長くなりました。念のため誤解のないように申し上げておきますが、私は決して、「上座部仏教」とか「テーラワーダ仏教」と呼ばれている仏教をdisりたいわけではありません。ただ、それが“ほんとうの”仏教だとか、それ以外の仏教はニセモノだといった類の見解には同意しないというだけです。

 これまでに述べてきたように、インド仏教史全体を眺めても、「ここからここまでが仏説で、それ以外は非仏説である」とか「ここからここまでが三蔵である」といった何らかの基準が、仏教世界全体の共通了解になったことは一度たりともありません。インド仏教では、ある部派や学派で「仏説」だと認められ伝承されている仏典が、別の部派や学派では伝承されず、「仏説」だと認められていないことが珍しくありません。それぞれの部派や学派に異なる教えが「仏説」として伝承されていたのです。そればかりか、有部や上座部などの主要な部派の内部には、大乗経典を信奉する人々も存在していました。

 インド仏教では、「正統」とか「中心」とでも言うべきものが最後まで確立されず、ただ「中心」のないネットワークがあったわけです。この事情はスリランカでも同様で、無畏山寺派でも祇多林寺派でも大乗の信仰が盛んでした。仏教世界全体を見渡しても、大寺派という「特異な」一派以外に、三蔵の範囲を明確化する方向に進んだ部派は見られないのです(誤解はないとは思いますが、私はここで「特異な」ということばを良い意味で用いているわけでもないし、悪い意味で用いているわけでもありません)。

 現在の上座部仏教圏に伝わるパーリ三蔵には、“相対的に”古い仏典も含まれており、極めて貴重な資料であることは間違いありません。しかし、だからといって有部や大衆部や法蔵部といったいろんな部派に伝えられていた仏典はまがいものであり、大寺派に伝えられていたパーリ三蔵が“ほんもの”だと言える根拠はありません。有部が伝えていた仏典も大衆部が伝えていた仏典も大寺派が伝えていた仏典も、いずれも「仏様はこうお説きになったのだ」と語る数ある伝承のうちの一つであって、そのなかのどれかが“ほんとうの”釈迦の教えだと言える根拠はないのです。繰り返しになりますが、部派のフィルターを通っていない仏典は存在しません。我々が知っているのは釈迦の肉声ではなく、それぞれの部派や学派で伝えられていた、お互いに異なるいろんな種類の伝承なのです。

 仏教世界は、「正統」や「中心」が確立されず、「原作」が確定されないままに、おそろしく多種多様な「二次創作」が行われていった場所です。「原作」が確定されないまま「中心」なき「二次創作」が行われていく流れすべてが仏教であり、「これが“ほんとうの”仏教だ」という何らかの絶対的な基準を立てるのは無理があると私は考えています。そこに「ほんもの/にせもの」とか「正統/異端」といったものさしを持ち込んでしまうと、仏教の実態を見失ってしまうように思うのです。


『根本説一切有部』が語る僧院の実態

 さて、パーリ仏典や、「近代以前の南方の仏教」の話はいったんこれくらいにします。“ほんとうの”仏教というイデオロギーになぜ私が同意しないのかを、もう少し別な角度から述べてみたいと思います。

 例えば、「後世の堕落した仏教と異なり、インドの比丘(尼)たちは清貧な暮らしをしていた。彼らは、三衣や鉢や坐具といった必要最低限のもの以外は財産を所有していなかった」とか、「後世の堕落した仏教と異なり、インドの僧侶たちは仏典の研究や瞑想修行に明け暮れていた」といったようなことを語る人を、今でも時々見かけます。「昔は良かった」というわけです。しかし、このようなイメージはインド仏教の実態から乖離していると言わざるをえません。

 例えば、グプタ朝(紀元後320~550頃)以降のインド北部全域において有力だった『根本説一切有部律』という律があります(現在のチベット仏教で用いられている律でもあります)。この律は、クシャーナ朝(紀元後1世紀から3世紀頃)やグプタ朝の時代に、インド北部の僧院がどのように運営されていたのか、その実態がどのようなものであったのかをいろいろと物語ってくれます。

『根本説一切有部律』には、僧侶が財産を蓄えたり、金融業に乗り出したり、建築の現場監督や犬の世話などの雑事にいそしむなど、様々な業務に関わっていた実態がありありと描かれています。そして『根本説一切有部律』は、僧侶が財産を貯えることを、教団の運営規則である律に反するとみなしていませんし、それを不道徳なことだとも説いていません。

貨幣の受け取りと使用

 信じられないと思う方もおられるでしょうから、実際に『根本説一切有部律』を見てみましょう。『根本説一切有部律』の「律分別」にこんな事案が記されています。ある比丘が、在家に対して善行を行うように勧めました。在家が具体的にどんなことをすべきかを尋ねると、比丘はサンガ(僧団)に浴室がないので、つくらせるようにと答えました。そこで在家はこう言いました。

「尊者よ、私はカールシャーパナ貨幣は持っているのですが、功徳の協力者の役目を勤めてくれる人がおりません。」
 比丘は「在家者よ、私があなたの功徳の協力者となりましょう」と言う。在家者は「尊者よ、大変結構です」と言ってカールシャーパナ貨幣を托鉢僧に渡す。比丘は僧伽に浴室を作らせに取りかかる。

グレゴリー・ショペン/小谷信千代訳『大乗仏教興起時代 インドの僧院生活』春秋社、2000年、p.190、太字引用者

 このあと、比丘は「功徳の協力者」となって、労働者を雇って賃金を払い(!)、浴室の完成を見届ける仕事を行ったと『根本説一切有部律』「律分別」は述べています。ここで比丘は金銭の受け取りや支払いを行っていますが、『根本説一切有部律』はそれを全く問題視していません。「これは律に違反する行為だ」とも「不道徳だ」とも述べていません。

 似たような事案は『根本説一切有部律』の「雑事」にも登場します。そこでは、比丘が在家に対して、サンガのために僧院をつくることを勧めたんですが、それに対して在家はこう答えました。

 在家者は「尊者よ、私はカールシャーパナ貨幣は持っていますが、法の協力者の役目を勤めてくれる人がいません」と言う。「在家者よ、カールシャーパナ貨幣を下さい。そうすれば私が法の協力者となりましょう。」「尊者よ、それは結構です。ここにそのカールシャーパナ貨幣があります」と言って、彼は比丘にカールシャーパナ貨幣を与える

同前、p.191、太字引用者

 比丘は貨幣を受け取って蔵に納めました。そのとき釈迦は、建設作業に用いる道具をつくったり、建設中に比丘が使ったりするためにその貨幣を用いるようにと指示(!)しましたそこで比丘は、道具の支払いをしたり、僧院の建築に従事しているあいだに自分の食料を買ったりするために、その貨幣を用いたと書いてあります。『根本説一切有部律』は、この一連の取引を全く問題視していません。貨幣による取引は釈迦が許可した行為として、当然のごとく行われているのです。

 他にこんな事案もあります。

 一人の僧が他の僧から敷物を借りたが、彼はその上で悪夢を見、それを汚物で汚してしまう。彼はそれをそのままにして返そうとしたが、その僧はそれを嫌がった。
 世尊は「それを洗って返却すればよい」と言われた。僧は洗濯したが、それを返却しても受け取ってもらえなかった。
 世尊は「彼はそれの対価、もしくは相手を満足させるだけを支払わねばならない」と言われた。

同前、p.194、太字引用者

 比丘には損害を賠償する義務があるというわけです。この点は、『根本説一切有部律』の規則が用いられたインド北部だけの話ではなく、南方のスリランカの上座部でも同様でした。先ほども登場していただいたインド学者のオスカー・フォン・ヒニューバーは、5世紀頃の上座部では、僧たちが経済手段を管理するのは普通のことであり、サンガが所有する品物が不注意によって紛失した場合は、僧がその損害を償う義務が課せられていたと指摘しています(O. von Hinüber, “Buddhist Law According to the Theravāda-Vinaya. A Survey of Theory and Practice” Journal of the International Association of Buddhist studies 18.1 (1995),p11参照)。

『根本説一切有部律』からもう一例あげておきましょう。これは、僧たちが盗賊にものを盗まれたという事案です。

 盗賊たちは盗んだ品物を運んで舎衛城に行き、路上でそれを売ろうとした。僧たちがそれに気づいて盗賊たちを法廷に突き出した。盗賊たちは刑を執行され束縛され手足を切断され穴をあけられ、そしてさまざまに苦しみを与えられた。
 僧たちはそのことを世尊に報告した。世尊は「彼らを法廷に引き出すべきではなかった。それよりむしろ、まず彼らに法を教えて教化すべきであった。それでも彼らが品物を返さなければ、それらの半額を支払ってそれらの品物を取り返すべきである。もしそのようにしても彼らがそれらを返さなければ、全額を支払って取り返すべきである

同前、p.200、太字引用者

 釈迦が示した対応策はなかなか興味深いものがあります。ともあれ以上のように、比丘(尼)たちはフツーに現ナマを受け取ったり、現ナマで支払ったりといったことをしていたわけです。

六比丘衆(六群比丘)

 ところで、インドでは仏教僧院で用いられていた印章(印鑑)や、それを押印した跡が各地で大量に出土しています。『根本説一切有部律』は、この印章についてこう述べています。

 泥棒が僧院の貴重品保管室と個人の独房から品物を盗んだ。その上、他の僧の所属品が間違って置かれており、彼らの所属品を置き直している内に、どれが自分が受け取ったものか分からなくなってしまった。僧たちはそのことを世尊に告げた。そこで世尊は「以後は許可するので印章を付けよ」と言われた。

同前、p.125

 ところが、釈迦がこの規則を定めると、いろんな問題が起きてきました。

 世尊が印章を付けなければならないと言われたので、六比丘衆は金や銀や瑠璃や水晶で印章を作らせ、あらゆる飾りで飾った印章付きの指輪をはめた。彼らはバラモンや在家者を見かけると、飾り立てた手を見せては「皆さんごきげんよう」と言った。  

同前、p.125

 ここに出てくる六比丘衆(六群比丘とも言います)というのは、チャンナ・ラールダーイ・ナンダ・ウパナンダ・アッサジ・プナッバスという6人の比丘のことです。仏典の語るところによれば彼らは、様々な問題行動で釈迦やその弟子たちを困らせたとされています。

 六比丘衆が「金や銀や瑠璃や水晶で印章を作らせ、あらゆる飾りで飾った印章付きの指輪をはめ」ているのを見たバラモンや在家者は、彼らを堕落していると非難しました。そこで釈迦は、金や銀や瑠璃や水晶でできた印章を持ったり、印章付きの指輪をはめたりしてはならず、真鍮・銅・青銅・象牙・角でつくられた印章を持たなければならないという規則を定めたとされています。ところが、話はこれでも終わりませんでした。六比丘衆はそれでも懲りなかったのだと言うのです。

 六比丘衆は彼らの印章に性器のついた男女を刻んだ。バラモンや在家者は「尊者らよ、あなたがたはそんなに性的なことに執着していて沙門なのですか」と言った。僧たちはその有様を世尊に報告した。世尊は「印章には僧伽の印章と個人の印章との二種がある。僧伽の印章には、中央に車輪を刻み、両側に鹿を描き、その下にヴィハーラの所有者の名を刻まなければならない。個人の印章には、骸骨か頭蓋骨を刻まなければならない」と言われた。

同前、p.129

 なんとまぁという話であります。ただ、比丘(尼)といえども人の子です。人の子がいっぱい集まって集団生活をしておれば、ひたすら学問学問瞑想瞑想菩提菩提などというわけには当然いかず、くだらないことや馬鹿馬鹿しいことが山ほど出てきたり、それに時間を割かねばならなくなったりといったことはやはり起きるわけです。教団が大きくなれば、こういうバカタレどもだって入ってきたことでしょう。過去は往々にして美化されがちですが、きれいなことばかりではないわけです。

大福徳者

 ところで、この六比丘衆の一人であるウパナンダは、律においては悪名高く貪欲な僧として描かれており、律のなかでしばしば酷評されたり嘲笑されたりしています。ところが『根本説一切有部律』では、ウパナンダはjñāta-mahāpuṇyaだと言われています。サンスクリット語でjñātaは「有名な」、mahāは「大いなる」、puṇyaは「功徳」を意味しますから、文字通りには「有名で大いなる功徳のある者」ということです。これは、インド北部で影響力があった『根本説一切有部律』だけの話ではなく、南方の上座部に伝わっている『パーリ律』でも同様です。仏教学者のグレゴリー・ショペン(1947-)によれば、ウパナンダは『パーリ律』では少なくとも四回、「大福徳者」(パーリ語でmahāpuñña)と呼ばれているそうです。

 なぜこんなことが起きるのでしょうか。結論から言うと、ここでいうmahāpuṇyaとかmahāpuññaというのは、「大いなる功徳のある者」とか「徳に満ちた者」という文字通りの意味ではなく、「金持ち」を意味しているのです。つまり、jñāta-mahāpuṇyaというのは「有名で金持ち」だということなのです。

 どういうことなのか見てみましょう。『根本説一切有部律』は、ウパナンダの臨終の様子や、彼が残した遺産の分配についてあれこれと述べています。

 ウパナンダは有名で金持ちである。彼は自分の居住地域の人々と弟子とをあらゆるところに派遣した。彼らは瓶に何杯ものギーと傷を縛る布を請い求めた。

同前、p.211

 ウパナンダは大量の金、三百千の金を所有していた。あるものは鉢や布から、あるものは病気の薬から、そして第三のものは加工・未加工の金から[得られた]ものである。 

同前、pp.211-212

 ウパナンダは相当な量の財産を私有していたというのです。また、『パーリ律』にはこんなエピソードが記されています。ある男が自分の妻に対して、「ウパナンダに寄付をしたいと思っている」と語ったのを知った比丘が、ウパナンダのところに行ってこう言いました。「尊者ウパナンダ、あなたは大福徳者(mahāpuñña)です。ある時、ある男がその妻に、私はウパナンダ師に衣をさしあげよう、と言いました」と。

 ここで重要なのは、『根本説一切有部律』でも『パーリ律』でも、多くの布施を集めて財産をいっぱい所有していることが、大きな福徳があることとイコールだと考えられているということです。実際のところ、『根本説一切有部律』や『パーリ律』では、逆に福徳の少ない比丘は貧しい者として描かれています。例えば、『根本説一切有部律』「経分別」には、「古参の僧は有名で多くの財産を持っていたが、新たに出家した僧はほとんど世間に知られず衣にも事欠くほどであった」(同前、p216)という一節があります。『パーリ律』「経分別」にも、六比丘衆のうちの二人につき従っていた新たに出家した比丘が、貧しく福徳が少ない者として描かれている箇所があります。『根本説一切有部律』でも『パーリ律』でも、ビンボーであることと功徳が少ないということはイコールだと考えられているわけです。

 つまりこういうことになります。『根本説一切有部律』や『パーリ律』が編集される時代までに、mahāpuṇyaとかmahāpuññaといった語は、もはや文字通りに「大きな功徳」を意味するものでも、宗教的に立派な人物を指すものでもなくなっていたということです。「比丘(尼)に大きな功徳があるかどうか」「比丘(尼)が宗教的に立派であるかどうか」は、比丘(尼)が所有している財産の量によって判定されるようになっていたとも言えます。ミもフタもないようですが、ホロ〇イブやに〇さんじのタレントのように、スパチャをいっぱい投げてもらえたり、グッズをいっぱい買ってもらえる人が「大いなる功徳のある者」であり、そうでない人は「功徳が少ない者」だということになります。「稼ぐが勝ち」みたいな話なのです。

 ついでに申しあげておくと、『根本説一切有部律』の「臥具事」には、こんな一節があります。

 世尊は「逝去した寄進者には福徳が約束さるべきである」と言われた。僧伽の長老は逝去した寄進者の利益のために偈を読誦した。そして一人の在家者が僧院にやって来た。彼は福徳が約束されるのを聞いた。

同前、pp.283-284、太字印章者

 この在家者は、長老が偈を読誦するのを聞いて、こう言いました。

「尊者よ、もし私が僧院を作らせたら、あなたは私の名前で福徳を唱えて下さいますか。(ārya yady ahaṃ vihāraṃ kārayāmi mamāpi nāmnā dakṣiṇām uddiśasi iti.)」
 長老は「作らせなさい、私はちゃんとそうします」と言う。そこで在家者は僧院を作らせた。

同前、p.284

 ここではっきりしているのは、長老が公の場で偈を唱えたということです。そして、ここに登場する在家者はそれを見て、自分の死後も同じように供養してもらいたい、死後の自分のご利益のために同じようにお経を唱えてほしいと期待して僧院を寄進したのだと考えられます。インドでも、僧侶は死んだ在家の支援者を供養する仕事に携わっていたと考えられるわけです。

僧侶の「業務」

 さて、ここで視点を変えて、当時の比丘(尼)たちが仏典の研究や瞑想修行などに集中していたのかどうかも探ってみましょう。仏教には安居と呼ばれる制度があります。これは、普段は別々に活動している比丘(尼)たちが、3か月のあいだ一箇所に集まって定住するという制度です。インドは一年のうちおおよそ3~4か月は雨期で、豪雨によって道が川みたいになることもしばしばです。そこで、雨期のあいだは特定の場所に定住して修行や学問に集中することになっています。

 律では、安居に入った比丘(尼)は、安居が終わるまで界(生活圏)の外に出てはならないと定められています。しかし『根本説一切有部律』をひもとくと、この規則は大幅な妥協を余儀なくされていることがわかります。『根本説一切有部律』「安居事」には、僧侶たちがこの規則を守った結果、在家からの物質的な支援を得られなくなったというエピソードが出てきます。それを受けて釈迦はこう考えます。

 世尊は自ら考えられた。ああ、私の弟子たちは布と食物との寄進を必要としている。僧が安らかに生活できるように、かつ寄進者の布施を活かすために、七日間の猶予を公認すべきではなかっただろうか。だから私は、業務の場合には七日間の認可を受けて出かけるべきことを公認しよう。

同前、p.233

 このように、安居期間中であっても、「業務」の場合は七日間であれば外出が公認されることになったというのです。その「業務」というのが具体的にどういうものなのかというと、「安居事」には、実に様々な「業務」が列挙されています。

 優婆塞(男性の在家信者)に対する業務とは何か。在家者が妻をめとり自立せんとしているとしよう。彼は多くの布と食物を集め、僧に使いをおくって「おいで下さい。そして尊者らはこれをご享受下さい」と言う。僧は正式に七日[の許可]を取って、優婆塞に対する業務のために出かけなければならない。これが優婆塞に対する業務である。
 また別に優婆塞に対する業務がある。在家者が四方僧伽にための僧院を造りたいと願うとしよう。……在家者がその同じ僧院に寝具とシーツを贈りたいと願うとしよう。……在家者がその僧院に永代義捐金を設けたいと願うとしよう。[そのどの場合でも]在家者は布と食物を集め、僧に使いをおくって「おいで下さい。そして尊者らはこれをご享受下さい」と言う。僧は[どの場合でも]正式に七日[の許可]を取って、優婆塞に対する業務のために出かけなければならない。これが優婆塞に対する業務である。
 また別に優婆塞に対する業務がある。在家者がその同じ僧院に如来の遺骨のために仏塔を建てたいと願うとしよう。……在家者がその同じ仏塔に旗竿を建てるための後援者になりたいと願うとしよう。傘蓋、幟、幡を立てたり、白檀やサフランを塗るための後援者になりたいと願うとしよう。[そのどの場合でも]彼は僧に使いをおくって「おいで下さい。そして尊者らは『法の協力者』になって下さい」と言う。僧は[どの場合でも]正式に七日[の許可]を取って、優婆塞に対する業務のために出かけなければならない。これが優婆塞に対する業務である。
 また別に優婆塞に対する業務がある。四部の経典の内のどれかの部の経典を説明し語るという優婆塞のための業務が生ずるとしよう。彼は多くの布と食物を集め、僧に使いをおくって「おいで下さい。そして尊者らはこれをご享受下さい」と言う。僧は正式に七日[の許可]を取って、優婆塞に対する業務のために出かけなければならない。これが優婆塞に対する業務である。

同前、pp.235-236、太字引用者

 このように『根本説一切有部律』「安居事」は、僧侶が安居中であっても出かけなければならないケースを列挙しています。ここに引用したのはこれでもその一部で、「安居事」はこの後も僧侶が出かけなければならないケースを長々と並べ続けています。ほかにも、僧団と在家が絶縁する場合や、逆に絶縁した関係を回復する場合や、在家が末期の病気になって「おいで下さい。尊者らに言葉をかけていただきたい」と言った場合など、様々な場合に僧侶は在家のもとに出かけなければなりません。また、これらの規則は「出かけてもよい」ではなく「出かけなければならない」と定めていることにも注意してください。どのケースでも、在家信者から「おいで下さい」と言われたら、僧侶は在家信者のところに出向かけなければなりません。僧侶には、出向くかどうかを自分で決める権利はありません。すべて義務なのです

 ちなみに、このように僧院をつくったり、永代義捐金を設けたり、仏塔を建てたり、傘蓋や幟や幡を立てたり、白檀やサフランを塗るための後援者になったりといった事業は、在家だけがやっていたことではありません。僧侶もこういった事業を行っていました。というのも、『根本説一切有部律』「安居事」では、僧侶がこういった事業を行って、別の僧侶に対して「おいで下さい」と言った場合には、在家の場合と同じく、安居中であっても出かけなければならないと定められているからです。

 さらに、『根本説一切有部律』は次のようにも言っています。

 さらに僧には別の義務がある。僧伽が一人の僧に関して、譴責、罪の判決、追放、在家者の罪の除去、罪を隠し続けたことによる停職、行ないを正そうとしなかったことによる停職、間違った見解を除かなかった場合の停職というような事を決定するさまざまな行為を行うとしよう。僧伽は僧たちの許に使いをおくって「おいで下さい。尊者らは法の味方におなり下さい」と言う。一人の僧が正式に七日[の許可]を取って、僧の業務のゆえに出かけなければならない。これが僧の業務である。

同前、pp.237-238

 以上のように比丘(尼)たちには、在家信者の結婚式や、僧院や仏塔の起工式や竣工式、僧院や仏塔への寄付に関するやりとり、経典の読誦、他の僧侶のためのいろんな活動といった具合に、仏典の研究や修行とは直接的には関係のない広い範囲の雑務に参加する義務があったわけです。いやぁ、びっくりですね。これらの義務を守っていた比丘(尼)たちは、雑務がいっぱいでさぞかし多忙であったことでしょう。

 過去というのは往々にして美化されるもので、我々は、インドの僧院では現在の「堕落した」仏教と異なり、比丘(尼)たちが仏典の研究や瞑想修行に励んでいたなどと考えがちです。しかし実際には、仏典の研究や瞑想修行は、比丘(尼)の数ある「業務」のうちの二つに過ぎなかったのです。

 例えば、『根本説一切有部律』「律分別」には、若いウパセーナという僧侶が登場します。師匠がウパセーナに対して、君は静慮(禅定)と読誦のどちらをやりたいのかと訊くと、ウパセーナは静慮をやりたいと答えました。そこで師匠はウパセーナに教えを授け、ウパセーナは修行を通じて煩悩を捨て去り、阿羅漢の位を直証したのだそうです。

「律分別」ではそのすぐ後に、別の若い僧のエピソードが出てきます。彼は師匠から、「私は静慮者なのだが、君は静慮と読誦のどちらを行うのか」と訊かれて、こう答えました。

「師よ、読誦を行ないます。」
「よろしい。息子よ、君は三蔵を読誦しなさい。」
 若い僧は「それには多くの書籍を持っている師匠が必要だ。この師匠は私に読誦を教えることはできない。だからどこかほかへ行かなければならない」と考えた。そう考えて他の所に行った。そこで彼は三蔵を読誦し三蔵に通暁し、弁舌自在の説法者となった。

同前、p.249

 これらの事案では、比丘(尼)が静慮と読誦のどちらかの道を選ぶことが前提となっており、両方を選ぶことはできないことになっています。実際、読誦の道を選んだ若い僧のケースでは、彼の師匠は仏典の読誦を教えることができない者として描かれています。師匠も静慮と読誦の両方を行ってはいないのです。よく、仏教の実践においては行と学(修行と学問)の両輪が大事だと言われるのを耳にします。それが間違いだというわけではないのですが、『根本説一切有部律』は、比丘(尼)たちが瞑想と学問の両方に従事するとは考えてもいないし、それを要求してもいないのです

 この静慮と読誦の問題については、『根本説一切有部律』の「衣事」に、こんなエピソードも記されています。先ほど登場してもらった六比丘衆のウパナンダは、既に述べたように多くの遺産を残して舎衛城で亡くなったそうです。舎衛城の僧たちは、遺産の相続権を得て、財産分与を開始しました。ところがそのとき、舎衛城以外の5つの都市から僧たちが次々にやってきて、分け前をよこせと要求しました。その結果、「遺産をもう一度寄せ集め分配して、僧たちは説法や読誦や諷誦やヨーガや精神統一をないがしろにした」(同前、p255)のだそうです。

 そこで釈迦は、僧侶が死んだ僧侶の遺産の取り分を要求する場合は、サンガ全体で行う5つの活動に参加しなければならないという規則を定めたのだそうです。その5つは、

〇死んだ僧の葬儀に参列しなければならない
〇サンガ全体で行う無常三啓経(Tridaṇḍaka)の読誦に参加しなければならない
〇サンガ全体で行う廟(caitya)の礼拝に参加しなければならない
〇籌をサンガ全体に配ることに参加しなければならない
〇サンガ全体で行う式典に参加しなければならない

 というものです。状況を整理してみましょう。

①ウパナンダが残した遺産をめぐって僧侶たちがもめて、静慮や読誦をないがしろにした。
②そこで釈迦は、遺産の取り分を要求する場合は、5つの「業務」に参加しなければならないと定めた。

 ここで①と②の因果関係を検討してみると、明らかにおかしなことが起きています。まず注意しなければならないのは、僧たちが死んだ僧の遺産の取り分を要求することを、釈迦は全く禁止していないということです。そして、ここが重要なんですが、釈迦がとった②の措置は、僧侶たちが静慮や読誦に専念できる環境や体制をもたらすものではありません。このような5つの「業務」が増えてしまったら、仏典を研究したり、瞑想修行をしたりする時間は、増えるどころか減ることになります。結果的に、静慮や読誦に専念するどころか、逆にますます僧たちを静慮や読誦から遠ざけるような規則が定められているのです。

 これと似たような事案は、『根本説一切有部律』の「比丘尼律分別」にも出てきます。あるとき、比丘尼たちが自分たちが使っているマットに不満を抱いたのだそうです。彼女たちは、マットが大き過ぎるとか小さ過ぎるとか長過ぎるとか短過ぎるなどと言ったあげく、マットを新たにつくらなければならないと考えました。その結果、「多くの仕事が必要となり多くの用事ができたので、説法や読誦や諷誦やヨーガや精神統一をないがしろにした」(同前、p.256)のだそうです。この事案でも釈迦は、比丘尼たちがマットをつくること自体は禁止しません。釈迦はマットの標準的な大きさを定めて、今後はその大きさでつくれと言うだけです。

 これらの事案に共通しているのは、「僧たちが静慮と読誦をないがしろにした」ことを口実にして、僧たちにいろんな雑務を課すことを正当化しようとしているということです。これらの事案を通じて釈迦が定めたとされる規則が、僧たちを静慮と読誦に集中させることにつながるものでないことは明らかです。それどころか逆に、5つの「業務」とかマットづくりといった雑務を増やして、結果的に静慮と読誦の時間を削減する規則を制定しているわけです。『根本説一切有部律』の編集者たちは、比丘(尼)たちに対して、仏典の学習・研究や瞑想修行以外の幅広い「業務」に参加することを義務づけようとしていると言っていいでしょう。


カネがカネを呼ぶ/人気が人気を呼ぶ

 さて、ここで視点を変えて、このような僧院に対して在家がどのように関わっていたのかも探ってみましょう。在家はなにゆえ僧院に対してお布施をしていたのでしょうか。『根本説一切有部律』の「雑事」にはこんなエピソードがあります。

 舎衛城に住むバラモンが何かの事情で外出した。昼までにいくつかの場所をまわり、疲れてジェータヴァナに入った。彼はそこに立派な坐具が延べられ、すばらしい食事が支度されているのを見た。彼はそれを見ていたく感動した。彼は極めて高価な布をまとっていたが、それを一座の長老の側に敷物用にと差し出した。

同前、p.259

  また、『根本説一切有部律』の「衣事」には、こうあります。

 田舎の小集落に一人の在家者がいた。彼は僧院を建てさせた。そこではただ一人の僧が雨安居に入った。しかし彼は活力に満ちていた。彼は毎日その僧院に牛糞を塗り、きれいに掃除をした。僧院はそのようにしてよく整頓され、人里離れた奇麗な場所に建てられていた。そしてその場所は、あらゆる種類の木々で飾られ、鴨やシギ、孔雀や鸚鵡、マイナ鳥やカッコーの柔らかな鳴き声に満たされ、さまざまな花や果実で飾られていた。
 さてある時、大金持ちの商人がその僧院で一夜を過ごした。その奇麗な僧院と奇麗な森を見た時、彼はいたく感動したので、比丘僧伽というものをいまだ見たこともないのに、彼らに非常に多くの寄進を直ちに贈った

同前、p.267、太字引用者

 ここで注意しなければならないのは、「比丘僧伽というものをいまだ見たこともないのに」という文言です。もう一例あげると、『根本説一切有部律』には次のようなエピソードも出てきます。

 在家者アナータピンダダはジェータヴァナを四方僧伽に寄進した。その内外が美しく彩色され絵画が描かれてしまった後に、舎衛城に住む大勢の人々は、在家者アナータピンダダがその内外を美しく彩色し絵を描かせてジェータヴァナをこの上もなく優れたものとしたということを聞いた。いく百千という人々がジェータヴァナの見物に訪れた
 その頃、舎衛城にあるバラモンが住んでいた。王も大臣もその地方の人々も感嘆して「このバラモンは美しい」と言った。彼は宮廷から大変価値のある綿布を受け取った。ある時、彼はその綿布を身にまとってジェータヴァナにそのすばらしさを見ようと出かけた。彼はそれを目にするや否やいたく感動し、その綿布を四方僧伽に寄進した。

同前、p.261、太字引用者

 あるバラモンを見て、その美しさに感嘆した人々が、彼に高価な品物を与えた。そのバラモンは仏教僧院の美しさに感動し、その高価な品物を仏教サンガに布施したというわけです。

 これらの事案では在家たちは、四諦八正道だの縁起だの無常だの五蘊十二処十八界だのといった仏の教えに感動したわけでもなければ、比丘(尼)たちが「覚り」を目指して修行する姿に感動したわけでもありません。彼らは、「立派な坐具」や「すばらしい食事」や美しい僧院や僧院に描かれた美しい絵画に「いたく感動」して、高額なお布施をしてくれたわけです。ここに出てくる大金持ちの商人に至っては、比丘僧伽というものをいまだ見たこともないのに」、僧院とその周辺の景色の美しさに「いたく感動」して赤スパを投げたのです。俗に「カネがカネを呼ぶ」「人気が人気を呼ぶ」などと言います。ミもフタもないようですが、「美しいモノが美しくて高価なモノを呼ぶ」わけです。

 さらに言うと、『根本説一切有部律』の「律分別」には、こんな事案も記されています。比丘が若者に対して仏教の輪廻説について説明しました。それを聞いた若者は、地獄や餓鬼や畜生に転生するのは好ましいと思えないが、人間や天に転生するのは好ましいと思うと述べたうえで、どうしたらいいのかを尋ねました。比丘は、出家すべきであると答えました。そうすれば、苦を消滅させるか、天に転生できると答えたのです。しかし、僧が若者に対して、出家したら一生のあいだ性的禁欲を実践する必要がある旨を告げると、若者はそれはできませんと答えたのです。

 そこで僧は、在家信者になることを若者に勧めました。しかし、在家信者になったら、一生のあいだ五戒を保たなければならないと告げると、若者はそれもできませんと答えます。そこで僧は、サンガに食事を提供することを勧めました。それならできるという話になったはいいのですが、その後若者は、サンガにお布施をするために必要なゼニを工面するのに苦労します。彼は結局建築労働の賃金労働、つまり日本語で言うドカタをやって日銭を稼いで、ようやくサンガにお布施をすることができたというのです。

「堕落史観」の落とし穴

 以上のようなエピソードは、ミもフタもないようではありますが、非常にリアリティがあります。例えば、パーリ経典や漢訳された阿含経典を読んでいると、そのへんの一般人が、四諦八正道や縁起や無常・ドゥッカ・無我といった釈迦の教えを聞いて、それに感銘を受けてすぐさま出家し、修行して阿羅漢になったなんてことがよく書いてあったりします。

 しかしぶっちゃけて言えば、仏教経典で描かれている世界というのは、あくまでも仏教の理想的なあり方を表現したものであり、当時の仏教の姿を脚色を交えずに「写実的に」表現したものではなかったりするわけです。比丘(尼)たちの実際の生活や本音が反映されているのは、経典ではなく律や碑文などの方なのです。これは、経典だけを読んで、それだけを根拠にかつてのインド仏教の様子を再現しようとすると、とんでもない間違いを犯しかねないということです。経典だけを読んでいると、「かつてのインドでは“ピュアな”仏教が行われており、比丘(尼)たちは仏典の研究や瞑想修行に明け暮れていた。それにひきかえ今の仏教は堕落している!」などとつい思ってしまいそうになりますが、それは美化され歪んだインド仏教のイメージだと言わざるをえません。

 なお、『根本説一切有部律』は紀元後に編集されていますから、そこに出てくる事案は、あくまでもそれが編集された当時の僧院の事情を反映したものです。それが釈迦の時代の仏教とどれくらい似ているのかなどといったことは全くわかりません。繰り返しになりますが、仏教について語る最古の文字資料は紀元前3世紀のアショーカ王碑文であり、アショーカ王の時代以前には遡れません。ですので、少なくとも現時点では、紀元前3世紀以前の仏教について確実にわかっていることはほとんどありません。客観的な文字資料が全くないからです。いずれにせよ、以上のように、「かつての仏教は“ピュア”だったが、時代が下るにつれて堕落していった」などという単純極まる見方は、客観的な根拠を欠いたものだと言わざるをえません。

貧すれば鈍する

 ここで誤解のないようにつけ加えておくと、「僧院が多くの財産を所有していることは、僧院の堕落を意味する」という見解には、私は同意しません。例えば、『根本説一切有部律』にはこんなエピソードが記されています。

 寒い時期にアナータピンダダという在家が僧院を訪れたところ、僧たちは床で身体を丸めていました。アナータピンダダがそれをとがめると、僧たちは「快適な人々は法に専念できるでしょうが、私たちは凍えています」と答えました。彼らには暖かい衣服がなかったのです。そこで釈迦は、僧が僧衣の下に在家の服を着ることを許可する規定を設けたとされています。

 また、こんなエピソードもあります。釈迦が森に住むことを称賛したので、数人の僧が森に住みました。しかし彼らは盗賊の追い剥ぎにあって、バラモンや在家の家をまわって衣をもらわないといけなくなりました。その結果、彼らは修行の実践を怠ることになってしまったのだというのです

『根本説一切有部律』が語るこの二つの事案には、物質的に豊かであるからこそ修行の実践が可能なのだという考え方が見られます。グレゴリー・ショペンは、「この律の編纂者たちはそのような窮乏を未然に防ぐために多数の規則を張り巡らせました。この律には財産の窮乏が宗教上の実践に及ぼす結果に詳細に言及した説明が数多く存在」すると指摘しています[ショペン 2000: p.165]。「貧すれば鈍する」じゃないけど、ビンボーになると仏教の実践が不可能になって堕落してしまうから、それを防ごうとする意識があるのだというわけです。

 一例をあげましょう。先ほど登場していただいた法顕は、ブッダガヤ―の僧院についてこう記しています。

 仏が得道した処には、三つの僧伽藍があり、みな僧が住んでいる。衆僧も民戸も供給が豊かで欠乏しているものはない。[ここは]戒律は厳峻で、威儀や起居、入衆の法は仏在世の時に聖僧たちが行った方法と同じであり、今に至っている。

長沢和俊訳注『法顕伝・宋雲行紀』東洋文庫、p.113

 物質的に欠乏しているものはなかったが、律が厳しく守られていたというのです。同じく先ほど登場してもらった義浄も、当時のインド仏教の中心地の一つだったナーランダー僧院についてこう述べています。

 那爛陀(Nālandā)寺の法(式)は(この跋羅訶寺よりも)更に厳しい。
 (那爛陀寺は)僧徒の数は三千を出、封邑(領地)は村(の数にして)二百余(もあるのだ。これらは)、並積代の君王の奉施(、奉納)する所であり、(これがために同寺は)紹隆、絶えることがなかったのである。(では、この隆盛の原因は? と問われるならば、私・義浄はこう答えよう。一体全体、)律でなくして(、何がそれを可能にしたと)論じられようか(? 否、律以外にはその那爛陀紹隆の原因はありはしないのである、と)。

宮林昭彦・加藤栄司訳『現代語訳 南海寄帰内法伝』法蔵館文庫、p.191-192

 つまり、ナーランダー寺の所有する土地は何世代にもわたって王が寄進したもので、200あまりの村からなっており物質的に豊かであったが、儀式も律も厳格に行われていたというのです。以上のことを踏まえると、僧院が物質的に豊かであることを直ちに僧院の「堕落」だとみなす考え方には、だいぶ疑問符がつくのではないでしょうか。

 当たり前のことですが、僧侶といえども人の子であり、カスミを食って生きているわけではありません。食べ物や飲み物や精舎や生活用品がそのへんの木からニョキニョキと生えてくるわけではないし、マルチや咲夜さんやレムやラムみたいなメイドさんも空から降ってきてはくれません。学問や瞑想だけではサンガは成り立たないし、在家とうまくやっていくとか、王様や大金持ちの商人のような強力なパトロンを得るとかしないといけないし、誰かかはヤボ用や雑務や事務をこなさないといけません。六比丘衆のように、サンガの炎上を招きそうな問題児の面倒も見ないといけません。『根本説一切有部律』が語るように、寒さで凍えたり、追い剥ぎにあって衣も得られぬというありさまでは、仏教の実践どころではなくなってしまいます。そういったことを見ないで済ますわけにはいかないように思うのです。

 まだ本稿の前フリすらも終わっていませんが、字数が多くなってきたので、今回はこれくらいにします。

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参考文献

<和文>
大野徹『謎の仏教王国パガン』NHKブックス、2022年
大竹晋『大乗非仏説をこえて』国書刊行会、2018年
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グレゴリー・ショペン『大乗仏教興起時代 インドの僧院生活』小谷信千代訳、春秋社、2000年
清水俊史『上座部仏教における聖典論の研究』大蔵出版、2021年
下田正弘「「正典概念とインド仏教史」を再考する――直線的歴史観からの解放――」『印度學佛敎學硏究』第68巻第2号、2020年
杉本良男『仏教モダニズムの遺産 アナガーリカ・ダルマパーラとナショナリズム』風響社、2021年
鈴木隆泰『仏典で実証する 葬式仏教正当論』興山舎、2013年
竹内雅夫『チューラヴァンサによる続スリランカ仏教王国記』星雲社、2013年
竹内雅夫『マハーワンサ――スリランカの大年代記――』星雲社、2017年
長沢和俊訳注『法顕伝・宋雲行紀』東洋文庫、1971年
中村元『中村元選集』第14巻、春秋社、1971年
中村元『ブッダのことば』岩波文庫、1984年
中村元『中村元選集[決定版]』第14巻、春秋社、1992年
馬場紀寿『初期仏教』岩波新書、2018年
馬場紀寿『仏教の正統と異端 パーリ・コスモポリスの成立』2022年、東京大学出版会
前田惠學『原始佛教聖典の成立史研究』山喜房仏書林、1964年
正木晃『空海をめぐる人物日本密教史』春秋社、2008年
水谷真成訳注『大唐西域記 3』東洋文庫、1999年
宮林昭彦・加藤栄司訳『現代語訳南海寄帰内法伝』法蔵館文庫、2022年
森祖道『スリランカの大乗仏教 文献・碑文・美術による解明』大蔵出版、2015年

<和文以外>
O. von Hinüber, “The Oldest Literary Language of Buddhism,” Selected papers on Pāli Studies, Oxford, 1994
O. von Hinüber, “The Saddharmapuṇḍarīkasūtra, at Gilgit: Manuscripts, Worshippers, and Artists” The Journal of Oriental Studies,22


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