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推し、いや、オタク

推し活というのをしていない。推しの正しい意味をよく知らないので自信をもっては言えないが。もし今「あなたは何を推していますか?」と例えば仕事中にでも聞かれたらどうだろう。「とくにいないです。まあ強いて言えば子供かな。あ、それと部署のみんなです。‥あはは かっこつけちゃいました」。たしかXでツイートしたときには「推しは自分自身。誰しもが一番に推すべきは己自身だと思う」。こんなこと呟いた気がする(ちょっと恥)。今、この場で言うならどうだろう。「推し? ‥‥(5秒後)いません」。かな。

興味があっちゃこっちゃ散らばる人間なので一つのものを熱烈に応援し続けるのは本来向いていないのかもしれない。でも、推しというのとはちょっと違うかもしれないけれど何かをまあまあ熱心にやっていたことはある。たしかにいくつかある。時間にして数年間くらい何かにはまったことが。ちょっと挙げさせていただきます。

高校時代。科目ですけど「地理」。猛烈に好きでした。教科書やもっていた参考書には若干飽きがきてしまい地図帳に勝手に島を描いて架空の国をいくつか作って想像上で存在させていました。海流や気候や地形を考える。人種や鉱物資源や産業を考える。町が生まれ都市になり港湾が作られ他国と貿易が始まる。わりと壮大なことになっていき地図帳がえらいことになってました。書き込みがすごくて‥。これ「あつまれ動物の森」とかいうゲームに近いのでしょうか。違いますかね。

社会人の若手時代。広告会社に入ったのですが、広告オタクだったのでクリエイター研究みたいなことを仕事とは別にやってました。研究というのも違うかな。プロの有名なクリエイターらを勝手に自分が選ぶランキングで採点していたのです。コピーライターとアートディレクター(グラフィックデザイナーも含む)編の二本立てで100位以内のランカーは名前と代表的なお仕事をすらすら言えました。

推しの話から始めましたが、今の二つの例はやっぱり推しではありませんね。推しってもっと謙虚というか健気な感じが出ているような気がします。うしろの下のほうから「何かあったときには自分が懸命に支えますからどんどん前に進んでください」という下支え感が根底にある印象。それに比べて地図帳の架空の国々やクリエイターランキングは推し感は少ないような気がする。どうかすると俯瞰感すらただよっているような。成層圏あたりから見下ろしてそう。

架空の国がリアルの国と関係し始めて現実が変化してしまう。クリエイターとはいえそのほとんどは会社員であるわけだが、そういう人たちを勝手にランキングの対象にしてしまう。こういう余計なことをやり始めるときってのは自分としてはそれに対する知識がため込まれたあげくにあふれ出てくるものと思われる、めっちゃ考え抜いたからこそそんな一人遊びをしていたのだろう。やってたことはしょうもないことかもしれないけれど相当な域には達していたのかもしれない。いやいや、ほめすぎだ笑。

今はそんな気になれるようなものは何もない。どうしてでしょう。そのうち考えてみようか。忙しすぎなのか。年とって刺激を感じにくくなってきたのか。たしかに感受性なんてものはだいぶ無くなっているのだろうな。いいんでしょうか。ダメかな。また何か夢中になれるものが現れるのかな。どうなんだろう。とりあえずオリンピックや甲子園や大谷さんのニュースでも見てワクワクしておこうっと。

菓子屋の広報








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