積極的に生きないでいる
ひとの間をたゆたうようにして過ごしている。
おそらく、この国に生きているみなは、積極的に生きる、生活することを望まれている。
小学生のころは、授業で手を上げ、可愛い恋愛をし、友達と外で思いっきり遊ぶことを望まれている。中学生の頃には、授業で当てられたらわかりやすく正しく回答し、あるいはそれができるよう家庭や学校で勉強し、特定の相手と恋愛をし、部活で汗を流し仲間と共に過ごすことを求められる。高校も。大学も。その先も。
生きることの肯定とは、死への否定らしい。生きることを積極的にすることで、死を遠ざけ、「人間として」生き続けることを肯定する。
気が付いたら積極的に生きることに飽きてしまった。
外から見れば、私は積極的に生きる要素の一つも持ち合わせていなかった。恋愛はしないし、友達は少なく、どもりやすく、人見知り(あるいは人嫌い)。それでも、世間や家族の期待に応えようと頑張ってきた。せいぜい人よりできたのは勉強で、それも自分が楽しい勉強だけだった。
それでも、かつては一生懸命生きようとしていた。
小学一年生の頃のことだ。
その日、3,4時間目が図工で、そのあと給食だった。絵の具を使っていたから、給食当番の人は早めに片付けて、支度をしなければいけない。とても焦っていた。
でも、その日の私はうまく体が動かなかった。おなかが痛かった。絵筆のバケツを片付けようと持って立ち上げるとこけて、周りやひざ下が絵の具に染まった。絵の具は溶けて混ざると茶色か灰色になる。その色にズボンが染まった。
でも、だれもわたしが見えていなかった。隣を歩くクラスメイトも、片づけをせかす先生も。誰もわたしが転んだことも、絵の具をこぼしたことも、おなかが痛くて泣いていることにも気が付かなかった。
その時、すっと心が遠退いた。現実が現実ではなくなった。わたしは自分の体を見下ろし、おなかが痛いことも、バケツをぶちまけたことも、客観的な事実になった。
立ち上がり、クラスの雑巾で床を拭く。とりあえずバケツを片付け、すぐに着替えた。
これは、私と長く――今なお付き合っている、離人感との始まりである。
25年生きていて、これが消えたことは数えるほどだ。おそらく、周りから見て楽しい時も、苦しい時も、ずっと付きまとっていた。本当に自分がいつか消えてしまうのではないかと何度も何度も苦しんだ。だれよりも親しい、そして消えてほしいものだ。
私は、今私自身が生きているのか、死んでいるのか、わからない。自分の外殻は、他者や他人と接してようやく認められるものだが、それをうまく感じ取ることができない。心臓が動いていても、これはきっとロボットの心臓なんだろうと抱える。
そう言った離人感を抱えながらも、ずっと私は生きようとしてきた。楽しいときは笑い、達成感に泣いたりもした。本能(感情?)のままに恋愛をしようとした。でも、この意味は何だろうと考えた時に、なにも返せなかった。何も返せなかったから、私は生きることに疲れて、飽きてしまった。
生きることは突き詰めれば虚無である。私たち人類は、巨大な宇宙、あるいは地球の細胞の一つであり、癌である。
でも、私たちが人間である限り、生きることに積極的であることが模範とされる。それが生、そして死の積極的否定であるからだ。
人生の意味が宇宙にとって虚無であったとしても、私は積極的に死にたいとは思わなかった。ただ、気づいたときには離人感が勝り、積極的に生きるのも億劫であった。
そう、積極的に生きるのはまあまあ億劫である。だって、そこまでして生きる意義も、やる理由も見つからないのだから。生きることはからの滑車をまわすことに等しい。成果がまったく見えてこないという意味で。
しかし、積極的に死を選ぶ気持ちにもなかなかならなかった。コストやしそんじたときのリスク、細胞としての長期的な役割、「自分自身」を捉えた時のむなしさを死と天秤にかけて、いつも死が負けた。つまり、私が選び続けたのは生だった。
死にも積極的になれない。ならば、生である。でも、積極的に生きる気持ちにも今更なれない。ならば、第三の選択だ。消極的に生きてしまえばいい。そういう結論に至れたのは、大学院でバチクソ病んで、一瞬休学がよぎったあたりだ。
どうせ、流されるように生きていても、時は経つ。ぼーっとしていても教育実習をどうにかパス出来たし、嫌なバイトもなんか終わった。つらいときは、時と自分の身体に任せて、ぼーっと流れてみようと思った。
これが私の中での積極的でなく生きること、消極的な生である。
現在の日本で、「消極的に生きるなら/積極的に生きられないなら、死んだほうがましだ」という風潮はあまりにも強い。100分の1のタネ粒になるくらいなら、1分の1の花になったほうがいい。それはわかる。でも、私たちはただの細胞だ。ほとんどの意思は世間に流され、価値観もなにも「自分のものだ」と思っていても、どこかからの流用だったりする。そして、それに私たちは気が付けない。その渦中にいるから、細胞を支配しているなにかの存在も、流れも、何も見えない。
生きるということはそもそもが怖い。だってこの先の道を誰も知らないのだから。しかし、とりあえず流されるのでもいいのではないだろうか。
細胞は宿主を選べない。私の胃の細胞の一つも、もしかしたら誰かの皮膚になりたかったのかもしれない。
だから仕方がないのだ。置かれた場所では人は咲けない。私は、消極的に生きたいと思う私自身を、私自身の心を、肯定している。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?