1gの愛と1ccのしあわせ
愛してるなんて簡単に言う言葉じゃない。だって愛ってなんなのかよくわからなかったから。好きとは違うように思えた。がんじがらめにされるような、もっとずっとずっと強くて重苦しい感情だと思っていた。
離婚を伝えるワイドショーが結婚会見時の映像を流す。愛しているって言ってた人たちが当たり前のように別れる。
愛という言葉を使う人は無責任で軽い人。そう思っていた。だからプロポーズの時も使うことはなかった。
「愛」とか「しあわせ」とか抽象的で形がなくて、なのに揺るがないような強さを感じさせる。絶対正しいって感じの確固たるものであるような。
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それからめちゃめちゃ時間を経たわけでもない。だけど今は「愛」とか「しあわせ」とか、その意味がなんとなくわかってきたように思う。
愛もしあわせも決して特別な感情じゃなくて、気負ったものでもなくて、感謝の延長線上にあるようなそんな感覚。日常のなかに当たり前のように溢れていて、気軽に挨拶をするような言葉。
しあわせよ、こんにちは。そばにいて。会えない間も手は繋いでた。
たまには嘘もついてたね。元気です!と
若いときに聞いてもよくわからなかったと思う。むしろ嘘つきな部分にだけ共感して、嘘つきな自分に同情してただろう。しあわせとか耳触りの良い言葉なんて聞き流して。
不揃いの具が入ったカレーを美味しそうに食べる娘と息子を眺め、おかわりって言われたら自分の食べる分を減らしてわけて。しあわせってこんなことなんだってふと気づく。
しあわせをしあわせだと思うこと。愛してるって気負わず思うこと。それを素直に伝えること。
大人になればなるほど強くて抽象的な言葉の意味がなんとなくわかってくるのかな。彼らを見ているとそう思う。
かっこいい大人達が今日も楽しそうにラッパを吹いてる。
祈るように待つのはもうやめた
哀しみはでたらめに塗りつぶせ
リボン 東京スカパラダイスオーケストラfeat.桜井和寿