ライトとレフトと時々ストレイト
信号が青から赤に変わった。
薄い青色の空が冬が近づいていることを教えてくれる。
イヤホン越しに響く五、六年前に流行った歌を懐かしみながら、買ったばかりのグレープフルーツジュースを片手にぼんやりと信号が変わるのを待つ。
無精ヒゲを生やしたおじさんがなにやら話しかけてきたのでイヤホンを外した。
「●●っていうラーメン屋がこの辺にあるって聞いたんだけど」
イヤホンをつけてない人が周りにいっぱいいて、それでも僕に聞きたかったことはラーメン屋の場所で。その感じが少し面白くて笑いをこらえる。
「この道を真っ直ぐ行って、次の信号を渡って少し歩くと左手にローソンがあるからそこの角を左に」とまで言うと、おじさんは「信号を左やね」と笑顔を返す。
「いや、信号を渡ってローソンを左ですね」
「信号のローソンを左やな」
と、どうしてもおじさんは信号を渡ってくれない。
「まず一度、信号を渡りましょう。信号を渡って少し歩いてローソンを左です」
「信号を渡ってローソンを左やな」
やっと渡ってくれたと変な達成感がこみあげる。
だけどここからの方が道は複雑で、おじさんにこれ以上伝えても大丈夫かなと躊躇う。ローソンを曲がった先にある次の道標はあろうことかセブンだから。コンビニからのコンビニ。おじさん大丈夫かな。伝えてもいいのかな。
なんなら今僕らがいるのはファミマの前で。コンビニからのコンビニからのコンビニで。そんなん思っていると、さらに面白くなってくる。もうコンビニで全国区の店のカップラーメンでもいいんじゃないかとすら、うっすら脳裏に浮かぶ。
「まずは信号を渡ってローソンまで行ってくださいね。そこからの道はちょっと複雑なので、その辺でまた聞かれた方がいいですよ」
諦めた僕におじさんは笑顔で「ありがとな」と言って歩いていった。
おじさんの人生のなかに二度と登場しない僕の役目は、次の信号を渡ってもらうこと。
そんなことを思っていると、ほんのりとある場面が浮かんだ。もう十年以上も前のことで、トルコで出会った学生風の男性。顔も服も声もおぼろげ。まさしく二度と会うことのない人。仮に会ってもすれ違う人。
僕はイスタンブールらへんの駅構内で迷って通りがかりの彼に道を尋ねた。彼は懸命に伝えようとしてくれたけど、ライトとレフトと時々ストレイトが何度も繰り返され、ト、ト、トばかりが脳内で響く。そんな僕を察して彼は優しい微笑みと一つの言葉をくれた。
「フォロミー」
そして彼が歩いていた方と真反対に歩き出し、目的地まで僕を連れていってくれた。
あぁ僕は彼の足元にも及ばない。
おじさんに言えればよかった。
フォロミーって。
言い訳を探すように腕時計に目をやって、後ろを振り返ったけどもうおじさんの姿はなかった。
おじさんがおいしいラーメンを食べられていますように。
そう願い、僕は優しい人のフリをした。