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『流浪の月』凪良ゆう【読後脳内】

まず、作品に関係ないことから。
この作品は逃源郷という喫茶店で読んだ。
僕は本を基本的に喫茶店かカフェで読む。
家では怠惰すぎて好きなことすらままならない。
だから色々な喫茶店に行くのだけれど、ここはわざわざ伝えたいくらい良かった。
京都に行ける人は行ってみてね、ぜひ。

はい、本筋。

この本は、次に読む気になる本が家になかったから出会った。母親の蔵書のうちの1冊である。
僕の読書好きは叔母→母親→僕という系譜がある。
僕は読みたい本のストックを切らさないタイプであり、また、所有欲が強いので図書館や誰かから借りたりしない。
だから、けっこうたまたまこの本と出会った。
もちろん存じ上げてはいたけれど、母親の本棚から本屋大賞受賞の帯が見えたので、つまらないなんてことはないだろうと思い、拝借した。

ちょっと物語の主題からはズレるだろうけれど、報道倫理について考えさせられる作品だった。
報道倫理なんて言葉は、メディア周りを学ぶ機会がないと耳にすることはないだろう。簡単に言えば、事件などを報道するにあたって、被害者はもちろん、加害者の権利も尊重されなければならないという考え方だ。
作中のニュースメディアは報道倫理に反していないように描かれていると思ったが、週刊誌はそうでは無い。
メディアを学んでいく中でもそうだが、昔から週刊誌はクソだなと思っている。
漠然とした嫌悪感をアカデミックに説明できるのはなんだか気持ちいい。
また逸れた。

ただ、この作品で強調されているように、事実と真実は異なる。
報道とは事実を報じるものだ。厳密な報道において、その事実を元にした推測などは異物である。
だからこそ、批判的に見なければ、真実の存在を見失う。

僕のゼミの先生は「消費者」であることを批判していた。社会に出るということは、誰かへの価値を創造して、その対価を得る、つまり「生産者」になるということであるそうだ。

作中の事件も週刊誌や掲示板を通して「消費」されている。もちろん、報道された事実だけを見れば立派な幼児誘拐事件であるのだから、その流れは当然であるし、その先の「真実」を梨花以外が知らないことを責めることなど、到底できない。
だが、インターネットにより、誰でも発信者になることのできる時代だ。
だからこそ、僕たち一般人、言ってみれば潜在的発信者たちも、報道倫理を知っておくことは、必要のない悲しみを生まないために必要だと思った。

ちょっと啓蒙的で偉そうだね。
次。

母親はどのような気持ちで読んだのだろう。

『冷静と情熱のあいだ』然り、他者のかかわる読書体験というのは、それはそれで面白い。

母親は、主人公2人の人格形成に大きくかかわった。
両極端に描かれた、2人の母親。
安西さんも母親か。
どう感じたのだろう、うちの母親は。
僕の母親は僕を見て、子育ては成功したとよく言う。僕はいつも、なんか言ってるわといった風に流すのだけれど、こう言えることはかなりすごい。

私の母親は、文の母親的に育児書をよく読んでいたし、マナーには厳しかったし、料理にも気を使っていた。
だが、更紗の母親的に僕の選択を尊重した。
僕がやりたいことはやらせてくれたし、やりたくないことはやらせなかった。

うん、多分母親がこの小説を読んでどう思ったなんか僕にはわからない。不思議な人だし。

わかる必要もない、聞くつもりもない。

それが本をはじめとした、コンテンツに触れる喜びだからだ。
僕が人の親になれば、親になる前に読んだ本に抱く感想もきっと変わる。
何か大きな出来事があって価値観が揺らげば、きっと変わる。
それでいいし、それがいい、それが面白い。

中間レポートくらいの文量を書いている。
長文失礼しました。
大学バレそうだな。

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