漂着物たちの最後のポートレート
表紙を見た時、初めに、壊れた地球儀とその上に落ちた人物の影の関係が気になった。地球儀は、紙がペロンとむけていて、地の黒い球体が一部見える。人類によって地球が壊れかけているという暗示だろうか。この地球儀はどこから流れてきたのか。持ち主に捨てられたのか、災害によって流されてきたものなのか。『忘却の海』というタイトルと相まっていろいろ想像が広がって、思わず手に取っていた。
内倉真一郎は宮崎在住。地元の海辺で、漂着物や不法投棄物、死骸等いわゆるゴミと向き合う。軍手をはめて、火ばさみ、ビニール袋、白い布を持って海岸を歩く。ヴァイオリン、腕時計、本、ビデオ、羽子板、空き缶、ペットボトル、フグやカニの死骸などのゴミを、採取した砂浜で白い布の上で即興的に組み合わせて、即物的に撮影する。砂をぱらぱら撒いたり、海藻や貝殻などを敷き詰めたりして舞台を作る。オブジェのようにアレンジして写真に留め、永遠の命を与える。
写真集を読み進むうちに、私は以前にも、内倉の作品を観ていたことに気が付いた。
2018年のキヤノン写真新世紀で『COLLECTION』が優秀賞をとっていた。カラー作品で、無機質な黒い背景で、ゴミが標本のように中央にほぼまっすぐに表示されていた。当時は勉強不足で、写真とはきれいなものをきれいに撮るものだと思っていただけに、ゴミが被写体になるなんて衝撃的だった。
そして2023年、『忘却の海』が刊行された。こちらは、モノクロで正方形の作品である。色をなくすことにより生々しいゴミではなく、長い年月の経過によって生まれた情緒とでもいうのだろうか、物たちが醸し出す雰囲気、使っていた人間たちの肖像を含めた姿として描かれているように感じた。『COLLECTION』では、その時点で出会ったゴミの標本に過ぎなかった。が、『忘却の海』では、背景や脇役とともに演出されたことにより、「時間の波」により打ち寄せられた「時代の遺跡」、自然災害や戦争などにより崩壊した幸せな日常生活の残滓にさえも見えてくる。
内倉は語る。
「僕は、ごみ捨て反対とかそういったものには全然興味がないのです。そうではなくて、ここに辿り着いた物たちの時間の流れというものが、すごくカッコイイと思ったのです」*
海辺のゴミというと、SDGs、海洋ゴミによる環境破壊、海洋プラスチックや廃棄された漁網による生物への被害など、社会問題への意識を喚起する素材として取り上げられることが多い。生活ゴミを題材にした作品では、Gregg Segal による「7 Days of Garbageプロジェクト」がある。ゴミを減らそうという目的で、1週間分の家庭から出たゴミと一緒に横たわってもらって撮影するというものだ。こういった作品の多くは、ゴミをネガティブに評価している。
それに対して内倉は、漂着物をカッコイイと言い、汚いもの、害悪を及ぼすものとして見ていない。ゴミが散らかっている状況を伝えるのではなく、まっさらな目で、時間の波に浸食されたその姿に出逢った一瞬に、敬意を持って漂着物たちからのメッセージを感じ取っている。
海藻に埋もれた羽子板(「羽子板」)、魚の骨と電子基盤の組み合わせ(「骨と基盤」)など、安井仲治が1930年代に提唱した撮影現場でモチーフを自由に「調和ならぬものを調和するよう組み立て」*2「半静物」の作品群に通じるものではないだろうか。マン・レイの「りんごとねじ」(1931)のような、意外性から膨らむ物語も感じられる。
近年では岡田将の『Microplastics』(2022)が、海洋生物の命を脅かす厄介な存在であるマイクロプラスチックを顕微鏡撮影・深度合成によって拡大して可視化するだけでなく、まるで宝石のように美しく表現した。漂着物をまっすぐ見つめる内倉の姿勢と共通している。
写真集の造本は、白を基調とし、表紙の文字や帯の色は銀色で、モノトーンの写真と合っている。ほとんどが見開きに1作品で、余白ページが多い。漂着物が経てきた遥かな時間、持ち主と過ごしたひととき、忘れ去られて波間を漂っていた旅路に思いをめぐらすことができるつくりになっている。
波をかぶったり太陽に曝されたりしてごわごわになった本の破れたページから覗く女の目(「本」)には、新品の本にはない凄みがある。顔の上半分が破れたポスターの目の位置に置かれたビデオテープという組み合わせの妙(「ポスターとビデオテープ」)には過ぎ去った時代の悲哀を感じる。ゴミはいつかなくなるだろうが、写真に留められた漂着物たちのインパクトは人々の心に永遠に残る。かつて人と関わり、そして忘れ去られて海辺に漂着したものたちをいとおしむ最後のポートレートである。
【出典】
*1 EMON Archives 2023 Shinichiro Uchikura
*2 安井仲治作品集 安井仲治 河出書房新社 2023 4章解説