出会いセッション

動物種が存続していることを考えれば、雄も雌も欠かせない存在です。種をまとめて「マガモ」などと呼びます。生殖を行う種では、異性と共にいる二個体を1単位とみなすこともできます。その出会いは化学反応を生むのです。人間においても、誰かと誰かが出会うことは、互いに変化をもたらす出来事でしょう。

では、私たちの日常的な「出会い」とは何なのでしょうか。しかし出会うことよりも、「知り合おう」とする気持ちが必要だと感じます。なぜなら、「出会いたい」と口にする人が、実際には「知り合いたい」とは思っていない場合が多いと感じるからです。SNSで見られる鬱憤は、相手を知ろうとする姿勢を欠き、むしろ相手を遠ざけるような文句や規定をいっているからです。それは結局、相手の条件テストでもあり、他者を疑う自分を納得させる過程に思えてきます。まるで死の受容過程です。しかしどんどん上がる最低条件に、自ら混乱していくように見える場合もあります。

自分の欲望が、自分の心地よさや人生を苦しめているように思えます。規定もある程度までは必要ですが、状況を越えて欲望することは、状況を閉ざしてしまうのでしょう。

仏教ではよく執着の話が扱われますが、こういうことかもしれません。既存の自分にこだわらず、離れていく。たしかに、さっきまであれがしたいと思っていても、少しして別のものに目がいけば、もう忘れてしまいます。そう考えれば規定とは、単にそれがいいと記憶しているだけなのかもしれません。

今後どうするかを今考えることはできますが、3年後に今どうするかを考えるとしたら、3年前の未来と今は、あまり一致しないような気がします。僕はそうだと思います。他にも、いいこと思いついてすぐにメモしなかったら、もう2度と思い出せなくなることはめずらしくありません。

かなりの量で、その瞬間にしか存在しない考えがあります。そういった偶然に思いつくことのほとんどは、目標にならずに消えています。それでも選択があらかじめ準備されているのです。自分の中から現れるものや、現実にある偶然やランダムな物事を、どうやって捕まえることができるのでしょう。いやほとんど無理なのではと思います。


確かに「出会い」には、あらかじめ条件を揃えた上で相手を見つけることもあります。特にビジネスの場面では、その傾向が顕著です。しかしその場合の相手の内面については、社会から逸脱しない限り深く気にせず、割り切って接することも珍しくありません。一方、恋愛における出会いでは、このような妥協に違和感を抱く人が多いかもしれません。ただ中には、恋愛でも条件をもとに割り切れる人もいると思います。そのような人はマッチングアプリで条件通りの相手を見つけられるのではないでしょうか。

しかし、恋愛に限らず「知り合う」という行為は、まだ知らないから始まるものです。「出会い」よりも内面的な行為であり、まだ知らない相手には「謎」が存在します。そこから引き出されるセッションです。このプロセスは例えるなら、接着力で強引に結びつけるものでもなく、乱雑に詰め込まれるものでもありません。それはむしろ、釘を使わない木造建築のように、相手の手触りのようなものを丁寧に感じ取ることが欠かせないでしょう。

恋愛は、二人で一つのものを作り上げていく行為といえます。このとき重要なのは、相手の心を読む力以上に、お互いの能力や反応を受け入れる姿勢です。この姿勢が欠ければ、セッションは失敗に終わるでしょう。相手に感じる「憎めなさ」などが重要なのです。規定ではなく、相手を調和する存在として捉えることで、内面的な「出会い」が成立するのだと思います。

言い換えれば、感性を受け入れることや、タイミングを合わせようとする柔軟な姿勢が欠かせません。「時と場合による」といった柔軟性と、絶対を持たない姿勢が前提になるでしょう。


ただ、残念なことに、私たちはそのような姿勢が忘れられた時代に生きています。しかし、このままでよいのかと考えることが、大きな一歩となるはずです。

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