昨年

声の大きな者が力を持つようになった。全体主義化やポピュリズム化が進んでいるように感じる。多様性の訴えが広がり、他者への理解が重視されるようになったことが、その一因かもしれない。

メディアを活用すれば、声は増幅され、納得させる力を持つ。そして、異なる意見を封じ込めることができれば、それが「正しさ」として定着してしまう。気づけば、異論が表に出にくくなり、多様性を謳いながらも、実際には意見の均質化が進んでいる。

情報の分配は機械的に行われるため、初期条件は誰もが同じだ。しかし、そこから抜け出せなくなる人々がいる。誰かの意見に思考や感情を制御されることは危険だ。自分の視点を持つことが難しくなり、結果として煽動されやすくなる。一方で、煽動する側もまた、情報の壁の内側にいるため、その行為が可能となる。こうした状況が既に失敗の兆候を示している。「気持ち」で正義を語ることは、大衆煽動に他ならない。

問題は、トランプやハリスといった個人ではなく、メディアとの関係がここまで歪んでいることにある。意見の分断、「意識の高低」といった分類、興味ごとのコミュニティの細分化――これらは1980年代の「内輪ネタ」文化と似ている。現代の分断と煽動の問題は、業界的なノリや、メディアの営業スマイルの延長線上にあるのではないか。


おすすめやサジェスト、レコメンド機能に触れ続けることで、多様性の可能性は遠のく。本屋の良さは、アルゴリズムから解放されることにもある。カバーや帯の宣伝文句に違和感を覚え、それをくだらないと思える感性もまた重要だ。そこには、与えられる情報を取捨選択し、自ら「アテンション」を蹴飛ばす作用がある。

1980年代の影響は、日本だけでなく世界各国にも見られる。例えば「習近平」を考えれば、天安門事件以前の社会構造が土台として残り、その上に後の変化が積み重なり、現在の姿を形成している。アメリカも同様だ。レーガン時代の経済・軍事政策が下部構造として定着し、その上に民主党的な装飾を施してきたが、結局は共和党的な力が優位に立つ。軍事と平和をまたぐ産業に投資が流れ、根幹の構造は変わらない。

1980年代に社会に入り込めた世代は、今なお有利に思える。80年代の仕事や文化を知らないことは、それ以降の世代にとって不利となる。しかし、21世紀の新しい世代は、まだ有利とは言えないが、不利とも限らない。次の時代が生まれつつあるように見える。ただし、現在が「80年代的な構造の踏襲」であるならば、その時代を知らない者ほど不利になる。いずれ大きな変革が訪れるだろう。そのとき、現状の勝ち組が次の時代を握るのか、それとも下部構造そのものが変わるのか、その振れ幅が問われる。


多様性を掲げながらも、多様性そのものが失われるという矛盾。これは、メディアと信念が過度に結びついた結果なのかもしれない。本当に必要なのは、メディアと信念を分離し、異なる声が生きられる空間を確保することではなかったか。

「自己責任の社会」と言われるが、実際には「社会がないから、個人が自己責任で防ぐ」しかないのではないか。本来、社会が適切に機能していれば、個人がすべての責任を負う必要はない。しかし、社会が個人を守る力を失ったとき、「すべては自己責任」という考えが生まれてしまう。

「社会」とは、精神分析でいう無意識に当たるものではないか。だからこそ、社会に興味を持つことは、時に現実から離れたものを見ることに似ている。文字で記述された社会と、実際の社会の捉えどころのなさに戸惑うことがある。「ソーシャル」という言葉には、そうした性質が感じられる。

無機的なデジタル的理想構造とは異なり、「社会」は作るものではなく、形成されていくものだ。市民生活のわかりやすさと、強制ではなく自らを制御できること。その積み重ねが社会を形づくる。各人が倫理観を発見し、それを持つこと。超えてはいけない一線を理解すること。信じるだけの正しさではなく、倫理観が社会を支えるべきではないか。

しかし現実には、政治が苦しむ者や辱めを受ける者の側に肩入れできない状況が、不安や危機感を生んでいる。現在の政治は、大衆的な意見や中央寄りの意見に偏りすぎている。


絶対を唱える者に反発し、弱者の味方をする。正しさではなく、人々のいじらしさに情を感じる――そうした感性は、弱者に寄り添えない人には持ち得ないのかもしれない。日本社会に対する不満も、これに似ている。「やりすぎだ、いい加減にしろ」そんな苛立ちが、権力への怒りへと向かっている。一方で、情報産業や広告代理店は、いまだに信仰心を保ち続けているように見える。何かが吹っ切れていない、どこか気持ち悪い時代が続いている。

こうした状況は、日本だけでなく世界にも共通しているのではないか。2010年代までの資本主義、あるいはグローバル経済の動きが、散らかしすぎたからだ。本来不要なことを次々と行い、その達成が難しくなると「これは大問題だ」と騒ぎ立てる。しかし、時には黙ることで解決することもあるのではないか。

もし「究極的に正しいもの」があるとすれば、それは固定的な理想ではなく、常に変化する現実を受け入れることが唯一のまともさなのではないか。

社会の「器」を考えるとき、理想のために犠牲者をやむなしとするのではなく、辱めを受ける者や負担を強いられる者をどう救うかを軸に、理想でなくとも受け入れる余裕のある社会こそが、人間の社会ではないだろうか。


この話は去年書いてしまっていたものだが、いま読むと去年の話なのか今年になってからの話なのか、よくわからなくなってくる。ただ、これを読み返していて、去年までとは日本は明確に変わったのだなと感じられた。

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