社会での自由
現代の情報社会におけるフロンティアとは何か
現代の情報社会におけるフロンティアとは何か。それは、大衆が白紙状態であることだ。この状況を恐ろしいとは思わないだろうか。煽動者は人々の自己愛を利用し、力を得ていく。その現象を私たちは目の当たりにしている。
知とは、他者が選んだものを受け取るのではなく、自ら理解しようとする負担によって得られるものだ。効率を無視できるかどうかが、知性を養う鍵となる。専門家に支配されるのではなく、自ら主体となり、彼らをうまく活用する必要がある。
感情の外付け化とその危険性
人類の進歩とは、感情を外部に依存することなのだろうか。現代では、感情の源泉が外部からもたらされるようになった。自らの核から湧き出る感情ではなくなった人々は、感情をコントロールされれば、状況による反応がなくなる。目の前の空間認識を失い、人の話を聞かず、周囲のイメージも目に入らないまま過ごすようになる。そう気づいているのなら、そんな生活をしたくないと思えるだろう。
私たちは、社会によって自立性を奪われ、積極性を失っている。場合によっては親からもそれを受けている。それによる虚無感すら、メディア環境や商業によって埋めてしまう。内面が起こす負の圧力も正の圧力も活用できない。ただ流されるままだ。
日本の経済成長期以降、金が余ったのであれば、いい趣味を持てばよかったのだ。しかしそうはしなかった。我々は多くのものに依存し、また外部からの影響を受けて生きている。
周囲からの影響は避けられないが、それを意識的に見直し、解消する努力をすべきだ。そのためには、省略をしないことだ。一手間多くて当たり前と思うこと。考えたり確かめること。それらを端折ることで、自分の内面の質を高められる機会を逃している。ただし、すべてを一律に丁寧に行うのは心理的な負担が大きい。一手間増やす時と合理的に整える時を、バランスよく交互に設けたらよいと思う。
不安とマーケティングの影響
人々の心理は時代によって形成され、時代を知らなければ不安も生じる。不安を解消するための消費が繰り返され、過剰に信じること、過剰に信じさせることが当たり前になっている。しかし、私たちはその異様さに気づき始めているのではないだろうか。
幸福とは、案外「理屈抜き」なものではないか。相手の特徴によって考えたり、反応を変えることが、相手を考えて見ているのだと思う。しかし理屈が先行するとそれがなくなる。
日々感じる「不足感」は、商業活動によって無用に拡大されたものだろう。欲望は自然なものだが、欲求は満たされればひとまず足りるものだ。しかし、画面の向こうにあるものが手元にないという錯覚が、不足感を生み出している。マーケティングの影響下にある私たちが自由であるために、自分の中に居座った理由を自由に破棄できる能力が必要だ。
言語過多の時代と知の本質
言語での説明が多すぎる時代状況を考えると、自己矛盾に気づくことが自由で、影響の受けやすさが不平等なものだと考えることもできる。生物は間違えるから進化するのだろう。人間もまた、イレギュラーな要素があるから知を生み出す。
「プログラム通り」に動くだけの存在は、知があるとはいえない。やる気や能力開発といった概念を真面目に論じたり、新たなデバイスを開発したりするが、結局のところ「うんこドリル」には敵わない。正しさは、本当の正解を受け入れないようだ。
遊びや趣味などは、勘違いを生み出すことがあるし、勘違いそのものでもある。遊びで勘違い力を育み、遊びによって勘違いを生む。現実は楽しいという気分や生き心地が悪くない状態は、勘違いが足りているからではないだろうか?装飾性、服飾ファッション、センスなどは勘違いなしには成り立たないのではと思う。しかしまた、センスを正解や好き嫌いに乗っ取られてしまっている。
自由と偶然性の関係
現実の人生は、大きな部分では、なるようにしかならない。同時に自分の可能性は、ポジティブなものだけではない。自分もあのようになっていたかもしれないという可能性もまた、自分の一部だ。
自由を条件なしに解放すると、偶発性も解放してしまう。ある一手に意味がなくなり、秩序を失って何もできない状況になる。心地よい自由ではなくなる。心の自由とは、他人に指図されたくないという気持ちから生まれるものだと思うが、それは人生の自由ではないようだ。
正しさを信じ抜くのは内面では可能だが、それを外に出すと現実との矛盾が生じる。正しさにこだわるのではなく、人当たりの良さや手触りのような感覚を持つことが重要だ。極端に正義を振りかざすことは、結局、人を切り捨てる行為につながる。
ここで意味のない世界を召喚したのは、エゴイズムだと思う。決めつけることは、将来的に自分の自由を奪う。人間一人の力で偶然性を完全に制御することは不可能だ。考えた通りにならないことも多く、仮に思い通りになったとしても、その後の展開で現実に飲み込まれることがある。過度な決めつけは生を弱めるものであり、それは無限への抵抗ともいえる。無限を受け入れることで、認識が広がり、新たな自己が生まれていく。
自分の思う通りに世界を見ようとするのをやめたら、それは自然だなとか現象だなと思うようになりそうだ。そのように、自分を過大にも過小にも評価しなければ、自分らしくなるはずだ。先入観を持たずに自己を観察していけば、自然とまとまりが見えてくる。
決めつけることは、それよりも先の自分の自由を奪う。人間一人に偶然性に勝てるほどの力はない。考えた通りにいかないことは多い。考えた通りになっても、その後の展開で、現実に飲み込まれてしまう。そのうちに決めつけは生を弱らせるだろう。決めつけは無限への抵抗と考えれば納得いく。無限は認識もまた無限にし、新たな私になっていく。
成功は運命でもないし道徳的だからでもない。失敗は運命ではないし不道徳だからではない。間違いの正体が見つからなければ、一向に抜け出せない。あるものに対して好意的な評価をしているということは、それを信じているのではないだろうか。「信じた」という固定的な状態から抜け出すには、体験からわかることで判断できればよいのだと思う。
わがままと社会の関係
フロンティアが存在するという暗黙の前提が、わがままを正当化している。しかし現代において、誰の迷惑もかけずに勝手にやれるという考えは成り立たない。人権や環境を考えなければならない時代において、そのようなフロンティアはもはや存在しない。
周囲との関わりを意識しながら、同時に気分で生きていると、気分が悪くなるはずだ。欲望のボリュームや形状を調整する必要があり、それが脱近代への一歩となる。
図々しさは他者に対するものであるが、わがままは他者と現実に対して半々のものだろう。社会に生きる以上、個々のわがままは広範囲の問題を引き起こす。
また、舐めているとは、単に他者を馬鹿にすることではなく、不注意や軽率な態度を指す。それが周囲に迷惑をかけることで、結果的に舐めていると受け取られるのだ。
まとめ
現代の情報社会において、私たちは多くの影響を受け、感情や思考を外部に依存しながら生きている。しかし、その影響をただ受け入れるのではなく、意識的に見直し、解消する努力をすべきだ。
自由とは、偶然性を許容することであり、単なるわがままとは異なる。自分の内面を観察し、決めつけを避けることが、長期的に自由を守る道となる。正しさに固執するのではなく、人当たりの良さや柔軟性を持ち、社会の中で自らの知性を活用していくことが求められている。