二十一世紀の謎。「チラシいりまん」
やっぱり、心の中に世の中への不満があるんだと思います。でも、最近はその不満を抑えようと何かしたり、不満を使える形にしようと試行錯誤したり、そういったことはしなくなりました。気分としては前ほど湧き上がってこないけれど、発想の動機としてはまだあるのでしょうね。
例えばポリコレとか左右の対立って、どこにも進まないような気がするんですよね。たとえるなら、世界から戦争がなくならないのと同じ感じです。多分、現代は「人間の社会性」と「社会の政治性」を混同しているんだと思います。この話は引っ張りたくないのでここで切りますけど。
「時代は変わった」とよく言いますよね。でも、正直コロコロ変わりすぎでめんどくさい。5年単位で見ても、社会は別物みたいになっている。それなのに、社会の閉塞感って全然解決していない気がします。「世の中、変わっていない」ですよ。
社会の閉塞感って「言葉が直列に並んでいる」せいじゃないかと思うんです。理解が箇条書き的に並列にならない。それでは多様とは言えないし、文学作品が読みにくくなってくるのもわかります。いわば演繹法と帰納法の違いみたいなものです。今の時代は、会話的に意味を連続させてぐるぐる回っているだけで、前に進まないんだと思います。
現代社会は結局、「俺が見つからない!」と叫んでいるような気がします。最初から「自分って謎だな」と思っていればよかったのでしょうね。乳幼児期は世界も自分も謎そのものだったんだろうし。
そうしていれば、「へぇ、自分ってこうなんだ」とか、「こう思うんだ」と素直に受け止められたと思うんです。自己評価や自己肯定、自己否定なんて概念もいらなくなる。「わからんねー。まだまだだねー。謎だよ」と言っていればよかったのかもしれません。
この考え方だと、大人になるほど自分が曖昧になっていく。同時に、加減が上手くなっていくような気がします。言葉の方向が逆になりますけど、ドーナツの穴がはっきりしてくるから「いかにもドーナツらしい」存在になっていく。そんな感じです。いつまでも何かが足りない。そういうものなのだと思います。
でも、今は「自分のことばかり」考える時代です。話の伝達だって、相手がどう誤解するかを考えず、「どうすれば正確に伝わるか」ばかり語っている。
こんなに分析が進んだ世の中だと、本来の想像が行き場を失う。ネットやマスメディアがその役割を担っているのかなと思います。
理想と現実が分離してしまった。その上、感性も分離してしまっている。この三つがバラバラになっているんです。
旅をして気づいたんですが、情報とその場の現実って違うことがあるんですよね。嘘とまでは言わないけれど、誇張や行き過ぎが目立つ。
コロナ前にエストニアに行ったとき、日本ではエストコインが話題になっていました。でも現地では全然違う話でした。ネット内で一人歩きしている話題なんて、行ったらすぐバレるんですよ。まあその頃はみんな、そう信じていたのでしょうね。日本語界隈に限ってのことかもしれませんが。むしろエストニアはセキュリティを得意としていて、こっちを学べよってことでした。
ネットを過大評価している人が多いと思います。ネットはすごいものじゃない。ほとんどがただのチラシ広告ですよ、小綺麗に仕上げてますけど。家の郵便受けにバカバカチラシが放り込まれてきて、全部には目を通さないと思います。でもネットだとそこそこ相手にしますよね。
スーパーのチラシを見て店に行くのと同じで、ネットの情報もそんなもの。それを過度に美化しているように感じます。簡単に手元にやってくる情報なんて、所詮そんなものなんですよ。それを許す社会が悪いという意見に同意しますけど、勘違いだって甚だしいと思いますよ。
地面を歩いて、手元のものを手に取って、腹に問いかけてみた方が、よっぽど世界に近い。それが少なくとも私の世界観です。
こうして文章にしたのは初めてなので、後で後悔するかもしれません。でも、僕の軸足になる活動はとてもアナログです。それだけでは現代人として生きていけないので、もう片方の足としてブログで日常テーマの作文を書こうと思っています。
架空の日常会話で問われたことに対して浮かんだことを書いていく。それが日常作文のイメージです。世間話では言わないようなことを書きつつ、即興性を大事にしてみたい。即興的に書くことで、自分自身を観察し、謎を少しずつ解いていけたらいいなと思っています。
僕にとって日常は現実です。それは非現実でも夢でもなく、感性で捉えた今。そして、どこかノスタルジックでもある。
日常は生きている限りずっと続くもの。でも不思議なことに、家にいるのに帰りたい気持ちになるんですよね。この世は、やっぱり謎だらけです。