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目的の拘束/することのない引力
余計なことを「しないで」いると、自分の癖や能動性が自然に動き出す。「しない」のは慣れるまでは難しいが、慣れれば普通のことになる。すると、考えた通りに動く状態から少し離れ、本来自分がどうしたかったのか、内面との連携を感じられるようになる。
初動を起こしても三日坊主になりがちだが、状況が整えば自然と続く。例えば、天気の良い日にランニング用のウェアを着てシューズを履き、玄関を出れば、ほぼ間違いなくランニングをするだろう。同じように、旅行でも計画を立て、荷物とチケットを用意して玄関を出れば、目的地までたどり着くだろう。
僕は市内の緑地公園に行くと、ベンチで読書をしてしまう。緑地公園ではパソコン作業や勉強、昼寝はしない。勉強もできなくはないが、やりにくい環境だ。しかし、読書は自然にできるし、少しのんびりするだけで満足感が得られる。風や日差しといった自然の変化が感性を忙しく働かせるため、読書をしに行くというよりも、自然を感じながらついやってしまう行動の一つが読書なのだろう。
場所が変わると読書の仕方も変わる。環境によって自分のモードが変わる。このような切り替わりを、日常・非日常と言っているのかもしれない。
旅先でも似たようなことが起きる。僕は知らない町の暮らしを感じたくて旅に出るが、予定を詰めずに過ごすことで、自分が「何をしてしまうか」を発見することがある。することがなくなってしまう時が来るからだ。
例えば、町歩きをして町中華が多いと気づけば、何軒かチャーハンを試してみる。また、持っていった作業を終わらせることもある。こうした「自然とやってしまう行動」には、情熱や意志ではない「まぁやるか」といった無抵抗なやる気が働いている。この能動性を活用すれば、無理なく行動できるだろう。
テレビやスマホに依存してしまうと、この無抵抗なやる気は活用できない。「いつものことをしない」と考えると我慢になるが、そうしてしまう状況に身を置けば、自然と動き出せる。我慢や自分を抑えることではなく、無意味のまま動いて、意味へと転じることができるのだ。
何もしないことで、普段眠っていた能動性や可能性が発現することがある。旅先で不完全な日常を過ごす効果は意外に大きい。理由がなければ動けない人には否定されるかもしれないが、それによって引き出される自分も確かに存在する。いつもの慣れた空間や情報、内輪の常識から距離を取ることで、正体不明の閉塞感を壊していける。閉塞感は社会の問題だけでなく、理由や意味に頼りすぎることからも生まれるのだ。
頭の熱が冷めると、自分と一体化したように全身で物事にこだわることができるようになる。捨てられない物は、一度捨ててもまた手元に戻ってくるようなものだ。「してしまうこだわり」は他人から見ると意味がないように思えるかもしれないが、動物のようにこだわりを持たない方がストレートだと言える面もある。動物は価値のないことはしない。自虐にしか思えないことをこんなにやる人間は、こだわりにバグっている。
例えば、散歩中に出会ったカラスが木の実を割って食べようとしていたが、僕が口笛を吹くとその作業を中断してこちらを見た。このように、動物は「今」の作業に集中し、柔軟に反応する。現代人は意識を上位、無意識を下位と捉えがちだが、能動性を解放するにはその関係を逆転させる必要がある。
人間は過去を知り、未来を想像できる。記憶力は過去を保ち、思考力は未来や将来を広げる。しかし動物は今現在が得意だ。人間は時間幅が広がった分、今現在が苦手になったらしい。頭は過去か未来に行ってしまう。生き物は今の状況に合わせることも必要だし、自分に有用なものを判断する力が求められる。
こだわりには良い場合もあるが、理由に支配されると視野が狭まる原因となる。世界を正しく見るには、固定観念やこだわりを減らしておく方がよい。無意識とは、むしろ意識(理想)によって押し出されてしまった自分そのものだ。
意味や目的のない時間は、ただ待つだけでは訪れなくなってしまった。今や、目を開けて言葉を聞けば次々と意味が詰め込まれる時代だ。しかしそもそも、特に目的もない時間や特に意味のないことは、それ自体が意味不明なのだ。
人生もこの世も、本当は誰にも分かっていない。分かっているふりをしているだけで、分かったつもりになっているだけだ。頭の中の規定を捨てると、ランダムな自然現実世界と出会う。自分にとって意味がなさそうなことをやることで、新たな世界が始まる。余裕や贅沢は無意味だと思われがちだが、心理的な価値を持っている。
僕たちが欲しい物は、欲しい物というより捨てられない物だ。いつか出会う未知のものではなく、ずっと前から心の中にあった本能的なものだ。「やるべき理由」や「こうでなければならない」という声が強すぎると、自分の頭が規定に支配されてしまう。私たちが本当に求めるものは、思い込みを取り払った後に見つかる。
自分が信じているものを無くすために知識を得ようとする人は多くない。しかし本来の勉強は、自分の知識の外側に連れて行ってくれる。
勉強とは、自分を正当化するためではなく、自分を超えるためにあるものだ。こだわりを減らすほど、現実を見る目が磨かれ、世界と調和できるようになる。「好き嫌いは仕方がないけど、ないほうがいい」くらいに思えたらいい。
夢を叶える場所は現実だ。こだわりが減るほど現実的な目になって現実への互換性が高まる。変えるのは自我とや世界の見方だ。昔はこれを「ものがわかるようになる」と言った。
世界は全体で成り立っている。切り取った断片は、世界そのものではない。他人の言葉に納得しすぎると、世界を見ることができなくなる。