暗い時代が明るくなる、言葉の生命力

「若者は他人を言葉で動かせるとは思っていないようだ。それが若さゆえなのか、それとも別の理由があるのかは明確ではない」とメモに書いてあった。もしかしたら、これまで耳にしてきた言葉の問題とも重なるのかもしれない、と思った。

人間社会の「言葉」の問題を改善するのは容易ではない。「受け取られ方が大事」とはよく言われるが、果たして未来のためになることを言葉にできているだろうか。


街を歩いていると、ほんの数秒先の状況も予測できない人に出会うことがある。前を見て歩いていれば気づくようなことに反応できない。この程度で後手を踏んでしまうようでは、「先々のために準備しておくこと」など想像もできないだろうし、将来への不安が募るのではないかと思ってしまう。

実際、日常的な事柄ほど先手で片付けておかないと、生活が行き詰まることがある。


良い時期や状況に準備をしておかなければ、蓄えなど不可能だ。良い時に備えた人だけが、次の良い時に笑えるのだと思う。

おそらく、現在のように世界規模で大きな変化が起きている時代では、基礎的な学びを身につけることが自分を守る一つの手段になるだろう。

新しい状況に対応する必要が生じれば、その時には基礎を知りたがる需要が生まれるはずだ。これまでの経験が通用しなくなるからだ。たとえそこまでの大変化がなかったとしても、現状のような低リターンの時代では、大きなリスクを取るのが難しい。

そのため基礎知識が必要になり、それを身につけるのは余裕のあるうちしかできない。流れが変わってから後追いするのは体力を奪う。準備の差は、後になればなるほど大きく感じられる。


文系学問が軽視されると、言葉の理解が単純化し、社会における言葉の役割が「質問と回答の反復」にとどまり、人間関係や社会の構造も単純化するのではないだろうか。このような状況になれば、口達者な少数が他者を制御し、多様な視点や深い思索が失われる危険性がある。現状、すでにそうなりつつあるようにも思える。

視点を広げれば、民主主義の健全な運営には文系的な基礎力が不可欠であり、言葉の訓練と理解が社会の基盤として極めて重要だ。


ふと気づいたのだが、小説家は文系学問の基礎を自然に持っているのだ。それがなければ確かに小説は書けないだろうと思う。

小説は、形容詞や動詞によって時間や空間を動かし、文字から読者の中に世界を具体化する。このような表現が成立するのは、文系的な基礎があるからだ。


読書は、世代や時代を超えて知識や経験を共有する手段だ。知の基盤を形成する役割もある。例えば小説には、戦前の話が残されている。世代を越えることができるのは、基礎知がそこに込められているからだろう。基礎知を持たない人が言葉を残しても、それはやがて消えてしまう。

知の基礎は「時」を持つ。それは、思考にとっての物質のようなものだ。小説家の偉大さに改めて驚かされる。

逆に言えば、時代や世代を越えられない言葉を使うなら、考えを自由にできていないのだろう。自分の言葉を自由にするためには、本を多様な視点で読み、言葉そのものへの理解を深めることが必要だと感じる。


時代が変化しても通用するものとして、言葉の理解が挙げられる。小説を読んだり、文系的な知に馴染むことの重要性は、これからの時代ますます高まるのではないだろうか。

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