旅3 ひとまず旅は終わる
今回の話は過去のメモをまとめたものなので、もしかしたら話が古いものもあるだろうなあと思う。だけど自分にとっては、きりよくまとめることが大事だった。
書きながら思った。話の内容が、最近読み始めたアガンベンの哲学に重なる気がした。
また企画みの強い現代社会と距離のある視点は、明治生まれのひいおばあちゃんに育てられたことと、マッキンタイアの哲学に影響を受けていると思う。それはローマキリスト教化が進む前の日本や、それ以前の西洋で考えられたギリシア哲学の視界ともつながる。そしてまた禅寺で体験したものもそうだ。
現代の常識感覚だと、情報伝達は現在世代間でどれだけ広くはっきりと伝えるか -実際には強いものの意見の浸透だが- 、になっていると思う。つまり、世代間の断裂どころか、現在世代と直接繋がりのない過去世代や未来世代とのつながりを無視している。
これは環境問題を考える時に、避けて通れない問題になる。現在世代の環境対策は、未来世代に、一定範囲内の良い評価を得られなければ意味がないからだ。しかし現代の取り組みに対しての結果を知ることはできない。このフィードバックのなさの中で、なにをしたら一定範囲内の良さになるのかを理解できなければならない。
そんなもん知ったこっちゃない、もしやるのなら、生きているうちに派手にやって名を残したい、と思うだろうか。それはもしかしたら、現在に閉じ込められた人生を送っているからかもしれない。そして当然、未来に名を残さない。
時代は変わるからだ。自然空間は時代を超えた基準地になる。過去とも未来とも共通する。共通OSのような存在だ。
現在では過去を切り捨てようとする。先祖の言い伝えを無視して、経済効率優先で発展開発を進める。東北の震災で見たように、過去との切り離しが災いを起こすこともある。
過去を大事にしたら今が停滞すると思うだろうか。しかし未来世代から考えるのなら、現在世代が残した言葉を破棄する心がそれだ。未来にとって私たちのしていることは捨てるべきものになる。
私たちが過去世代の声を聞こうともしないのなら、未来世代に私たちの声をきく文化は期待できない。さらにこういった状態では、未来にいくことができないのかもしれない。過去を捨てることは未来を捨てることで、現代の未来に対しての停滞感は、そういうことなのかもしれない。
時間は時間の矢のように捉えるだけではなく、アナログ時計のように進むとことろもある。現在と360度違う世界を否定すれば、当然その前後とも否定される。このように時代を超えることを壊しているのが現代人だ。
そしてその現在に閉じ込められてしまうと、無限の資本主義サイクルに閉じ込められてしまう。そしてそれを根本的に問題視してみても、建前程度に語るくらいしかできない。これがメディア上にある問題提起の正体だし、環境を考える時に対決しなければならない壁だし、ナルシシズムの暴走だ。ルッキズムとも関係があるかもしれない。
産業的な商業や技術の情報伝達理論に、文化的な情報伝達が破壊されてしまったのだろう。現在のコミュニケーション論は根本的に見直す必要がある。そういったときに、マッキンタイアの依存的な理性的動物としての関係性や、オートポイエーシス、複雑系といわれる捉え方などが、理解を支える。
感性に関しては、環境美学や日常美学に触れた影響と、禅寺での体験が大きかった。
現在では集中力が高いことを、一点を見つめ他が目に入らないような状態だけを指していると思う。しかし武術の達人的な隙のない集中の仕方とは逆のものだ。
山の中にある禅寺で、霧と雲の中で遠くを眺めて静かに座っていた時に、苔や石に集中していると霧が自分を包み込むようにやってきたのを見過ごしていることに気づいた。その時に、無関心性といわれる状態、エポケーかもしれない、なにか意味や価値や言葉や「それ」といった指定を解いて、時空をただ見つめてみた。その時の視界は「それ」がここにやってくる前にすでに「それ」を察知していた。通常の気付き方よりも、はるかに早い段階で、空間に起こることを捉えていた。このような、フォーカスをしないことで得られる、高い集中状態もあると体験した。ビジネスで言われるものではなく達人、手柄や目的に目がいったものではなく今ここに馴染むことといった説明ができるなと思った。
砂漠では「神」という説明が究極的だとしても、東洋には「時と場合による」という究極の言葉があるではないか。
万物流転だの諸行無常だの言いたがるけれど、どの立場でそういっているのだろうか。
現在流布されているコミュニケーション論や集中に関しての説明は、真逆のものなのかもしれない。現状では確実にビジネスや心理操作に好都合なものだとわかる。この方向性が決定的になっている。
地方論などは、こういった状態から抜け出すことが、その理想側の望みになっている。それは制御されており建前かもしれないが。ともかく地方問題は現在のビジネス観にはぐらかされた苦しみを訴えている。
旅をしてきてそれがわかった。現状の方向性は現代人が望む虚の側の解決に偏っている。それをするべきではないと考えているのではない。現状のアイデアではアンバランスで、うまくいっても、いずれコースアウトするはずだ。いやバランスを取ろうとすることが目指されたらよいのだと思う。それが持続可能性を目指す態度だ。その時に、何とバランスを取るのだということが、ほとんど捉えられていないのだと思う。
全体を見る人の思いつきと、見れない人の思いつきは大違いだ。後者は利己的なものになる。利他や利己が問題になるが、こういったところが原点にあるのではと思う。そうすると、わがまま身勝手が先か、全体視できていないことが先なのかわからなくなってくる。
この話は長くなりすぎたので、語るのはそろそろ終わりだ。またこのあたりの理解の旅はまだまだ先がありそうだ。
これがこれまでの旅で出会った未知の世界だったのだろうなあと思う。検索や口コミ情報などが先立っていたら、学問的に広がるよりも、実用や発展的な感覚を固めて、ここでいうアンバランスな生、アンバランスな世界観になっていただろうなと。
自然という言葉には、私たちが接することができるから自然だと確実に言えるところもある。でも私たちが触れない原生自然を意味する場合もある。辞書に書かれるとしたら、噛み合わない意味でも、2段に書かれてしまう。必ずその言葉には、どうしても外部ができてしまうのだ。レヴィナスのいう全体性とは外部を除いた意味合いで、無限とは外部も含もうとしているのではと思う。
まず単語には意味の矛盾が含まれ、そこをうまく使うことで他者を情報操作することにつながる。言語化が偏りを生んだ。
このような含みはまずアガンベンの著作にもあった。彼の「ホモ・サケル」という見方は言葉の外部を指摘し、ホロコーストだけでなく、自然も同様に、そうされても仕方がない存在に見ることができてしまう状態を問題視しているのではと思う。それが言葉で論じ切る世界のようだ。まだ読み始めたばかりなのだが、、、
反対側の世界Bと、バランスが取れる人々になりますように。