今とは別の社会

日本人は「話せば分かり合える」という考えを持ちがちだと感じます。しかしかつては行動や仕草、同じ空間を共有することで理解し合う文化がありました。そのような状況であれば、たしかに話せば分かり合えるのだと思います。しかしそうした文化が失われた現在、言葉によって人々を制御しようとする社会が形成され、言語的にも非言語的にも本来の通じ合いが損なわれているように感じます。

人は話すと、聞かれてもいない余計なことまで喋ってしまいがちです。そのため、話が散漫になり、無駄を感じることも少なくありません。その結果、まずは検索しろといいたくなる心理もひとまずわかります。インターネットには、社会における情報の散乱を、一定項目数に抑える作用があると言えるでしょう。検索では、不必要な情報は調べられず、端的にまとまった情報が上位に表示されることが多いため、この傾向は強まります。

インターネットの普及によって、人々が分断されたと言われます。通信メディアに依存しすぎた結果、言葉などのメディア化しやすい手段に伝達が特化し、感情的なつながりが薄れてしまったのかもしれません。通信を介したやり取りでは、数値や論理が重視され、裁量的な要素が伝えにくくなるため、関係が部分的に解体されやすくなります。一方、対面での交流では、納得だけでなく情が働きやすいものです。現代社会では日常にまでビジネス的な感覚が蔓延すると同時に、マキャベリアニズム的な傾向が強まっていると感じます。話し合いが減少した文明では、人間関係が歪み、人間味を失っていくのではないでしょうか。


確信は自己の行動を促しますが、一方で他者を硬直化させ、社会全体が乾燥したものになってしまう恐れがあります。自分の確信を外部に押しつけることで、考えが合わないものと線を引いてしまう。その結果、意図せずとも他者をジャッジしてしまうことになり、社会に新たな軋轢を生み出します。このような状況が、さらに生きにくさを助長し、より一層の分断を招くスパイラルが生じているのではないでしょうか。

理想的な会話とは、参加者が共に物語を紡ぎ出す行為であり、仕事上の伝達のように結論があらかじめ決まっているものではないと思います。しかし信念を押し付ける人が現れると、場の主導権が奪われ、その状態が崩れてしまいます。社交の場では、正しさや論理性を求めすぎることが逆効果となることもあります。また、極端な話題や悪感情に偏ることも問題です。真面目すぎたり、持論の押し付けは関係を損なう要因になります。会話において重要なのは、正しさを競うことではなく、ただ共にいることを大切にする姿勢です。これは、人間が社会的動物として共存する上で欠かせない要素でしょう。

互いに気を配り合える社会は心地よいものですが、一方的な気配りはストレスを高める可能性があります。また、他者の気の利かなさに苛立つと、上下関係を正当化しかねません。そして「私たち」という視点が強くなりすぎれば、問題が生まれます。既存の考え方や内輪的な癖から一歩引き、話し合う場が生まれていることが重要です。「私たち」という枠を持つ目的は、解釈の統一ではなく、同じ時代を生き、空間を共有することです。その結果、個人の人生や社会全体がより豊かになるのではないでしょうか。

長期的に見れば、固定された理屈は状況の変化に適応できず、いずれは破綻します。同様に、理想に固執すると、現実の他者を理解することが困難になります。そのような人は同時代人の正体をほとんど理解できないかもしれません。人間は意外なほど単純な存在であり、世の中に影響をうけて行動しているだけです。その整った挙動に隠され、単純さゆえに予測不能な生き物としての他人の心がわからなくなるのでしょう。理論的な他者理解が高度化しすぎて、こういうことだと決めつけすぎていると思います。その考えと現実の無邪気さとが繋げられず、現代人の正体がわからなくなるのも当然です。答えを求めすぎることは、変化するものから流れを奪い、現実的な他者との関係性を損ないます。

「謎」が消え、接する前から「わかっている」という状態では、人間の自然で単純な愛らしさも失われてしまいます。生命的なものが輝くためには、答えを求めるのではなく、発見そのものを目指すべきです。そのような態度で話し合いを行い、どこに向かうかわからない未来を共有することで、有機的な人間関係が育まれるのではないでしょうか。


現代社会では、多くの行動が型にはまり、論理の枠内で指導されることが増えています。その結果、個人の社会性が失われるという倒錯が生じています。組織的な関係においては考えの統一が認められても、人間の本来的な社会性は、動物的で非言語的な関係性から生まれるものです。

例えば、いじめは、他者よりも組織的な優位性を求める欲望が現象化したものとも考えられます。加害者は被害者の反応を利用し、自らの行為を正当化し、相手を貶めることで相対的な正当性を得ようとします。同様の構造はビジネスにも見られます。競争社会では偉さを目指し、行為が先行し後から正当性を演出する流れが常態化しています。後述する、先取り社会です。

競争を肯定し続ければ敗者を生み出す社会が生まれます。人間が目指すべきは、生物的な相互の関係性です。それはむしろ、善悪の判断ではなく弱い者を守る意識だと思います。共に安心できる社会を築こうという態度です。平和もまた、勝ち残った平和のための究極理論で手に入るものではなく、禍を予防する経験的な知恵によって維持されるべきです。世界は一つではなく、他の世界説明も当然存在するのだとわかっていることを共有していかなければなりません。

現実の「できない自分」を認め、他人に頼ることは、健全な関係性を築くための重要な一歩です。言葉の使用において大切なのは、表現力そのものではなく、自分の言葉で自分の理解を語ることです。大袈裟な表現や見栄を取り除いたとき、自分が本当に伝えたいことが見えてくるかもしれません。何かを間違えるとすっかり自分が消えてしまいます。これは、関係性のあり方において大きな課題となるのではないでしょうか。

バランスを保つことが重要であり、どちらかが正しいという偏りを反省的に考えられなければならないのではないでしょうか。ひとつの固定された規範や正しさに固執すると、対になる他者を排除する力が働きます。つまり正さや固定的な規定は、外部に空白が必要なのです。しかし現実のそこは空白ではないので、奪いにいくことになります。自作自演で状況に負圧を生み出しておいて、侵攻していく。規定や正しさは、いるはずの外部を無視することです。これは、歴史的には植民地主義や帝国主義の問題と同じ構造です。


世代間の断裂を生んでいる要因の一つとして、マーケティング・ターゲティングの影響が挙げられます。F1、F2などの枠組みで見ると、それぞれの世代が異なる価値観やイメージを持つことが明らかです。各ターゲット層には異なる動機が設定され、場合によっては異なる世代や層を仮想敵のように「アンチ」として位置づけ、強い動機にする場合も見られます。市場に本格デビューしている社会人に対して、学生が素直さを失っていないように見えるのは、単なる若さによるものではないかもしれません。

冷静に考えれば身近な情報発信者の中にも、刺激的な内容や感情を揺さぶる強い表現を意図的にし、外部に押し込もうとする発信は少なくありません。ネットメディアでは、アテンション効果の高いものを作らないと埋もれてしまうという意識が生まれ、結果として、瞬間的な反応を引き出すことを目的とした競争が激化しています。仮にそのメッセージが正しいことだとしても、視聴率競争に勝ち残った、他者をより制御することに優れた話がやってきているのです。

現代社会はあらゆる面で「演技過剰」になっています。商品名のネーミングも過度に演出され、人生イメージも過度に演技的で、そこまでやれば自己実現といわれる、といったら意地が悪いでしょうか。しつけはまるで演技指導のようになり、ポジティブ思考も一種の演技となっています。もし「演技力」という啓発本があれば、まさに自己啓発ではないでしょうか。いや自己啓発が演技指導の一環なのでしょう。自己実現とは、ある意味で「当たり役」を演じることなのかもしれません。現代人は演技し続けた結果、本来の自分が分からなくなったり、演技できないことで苦しむこともあるのだと思います。

あなたもやればできるとポジティブに鼓舞されることが多いですが、現実はそこまでコントロールできるものではありません。祈れば叶うレベルで信念化されていると思います。

ポジティブシンキングは、心が弱り、立ち上がる考えが持てなくなっている状態には重要になります。つまり固定観念や規定の多さを崩すことに意味があるはずです。しかし、現在のポジティブ思考は商業的な価値観や欲望の肯定と結びつき、異なる方向に向かっています。

ポジティブの浸透と商業について考えていたのですが、ローンやクレジットカードによる先取り消費が常態化した社会に向かったことと時代が重なっているように見え、一体になっているように見えてきます。しかし、いくら前借りを繰り返しても、最終的には余裕や最終的な貯金を超えることはできません。後先なく、慎重さが薄れた不安な社会では、かつての節約意識にある程度戻る必要があるのだと思います。

こうした不安は、成功者とされる人々や目標達成にこだわる人には語れないと思います。そのため、商業メディアに接続された大衆の社会では、この問題を正面から語ることができないのかもしれません。

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