晴れる読書
僕は僕にしかなれない
僕は僕にしかなれない。考えればそれは、最初から決まっていたことだ。持っていない可能性を「伸ばそう」としても無駄だ。やってみて、僕にはできないことがいくつもわかった。何もできないわけではないけれど、大したことはできない。できることが少しずつ狭まってきて、その「わずかなもの」に気づいたのだ。
だけど僕にしかなれないのだから、最初から僕は僕だった。人生で成すべきことを探さなくても、僕はもう「僕」だった。しかし、何十年も生きてきて、それで終わりでいいはずがない。運任せだけでは、生きた甲斐が感じられない。
「僕が生きているうちに何を成すか」
これまでの人生を振り返ると、散らかった道のりだった。そこに関しての導きに恵まれない人生だったのかもしれないが、ひとまずそこはいい。もっとまとまった成長ができたはずだし、過去の自分に「こう積み上げていけばいいよ」と助言したい。でもそれはできないことだ。
こんな小説のようなことが浮かぶ。でも、これは人生の小説化の一片だ。
文系という軸
僕は理数系も、体育や演技系も不得意だった。図画工作や地理、国語、社会系が自分なりには得意だった。ただ僕の学生時代は、特別な才能がないのなら、理数系で点を取るしかないような空気があった。振り返ってみれば、時代と噛み合わない運の悪さもあると思った。しかしそんな運を眺めることは、人生の「小説化」だろう。
小説を書こうとしているわけではない。ただ今でも学んだり、考え方の軸にするのは文系と呼ばれる方面だ。
言葉と僕
僕は文系軸で生きてきた。過去を振り返ると、僕は言葉が不得意だから文系を続けてきたのだとわかる。相手の様子に違和感を覚えたらなんだって疑うけれど、数字には疑いを持てない。自分なりの感覚を持っていないのだろう。
言葉なら首を傾げることができる。宣伝やPRだらけの時代には、過食状態になる。僕は言葉が簡単に浸透しないから、文系をやっている。言葉なら、わからないと感じられる。つまり言葉を疑い続けることで、言葉への注目が続く。言葉がなければ、僕は疑って、身動きが取れない。
そんなことを考えていたら、心理療法家は「メタ国語」の先生のようだと思った。治療に通ったことはないが、そんな本はよく読んできた。文系を学ぶほどに、自分の中の不鮮明なところが少しずつ正体を表し、諦めても平気なことや達成の不可能性も理解できるようになった。
国語力とアイデンティティ
僕のような人間の場合、アイデンティティに当たるものは「国語力」で得られる。言葉のヨミができるようになれば、自分の天地や正面方向くらいは感じられる。そのとき、心理的にもそこそこの安定が得られる。
心のもつれは国語力で解消される部分もあるだろう。ただし、数字が感覚化できる人や、自分の動きに疑いを持たない人には、それほどその必要がないのかもしれない。
読書と文系力
僕にとって国語は重要だと確信している。もし過去の自分に伝えられたなら、早くから迷いのない人生を送れただろう。そして、僕のような人間でありながら、それに気づけず苦しんでいる人もいるはずだ。読書離れが進む今、その数は増えているのかもしれない。
もしパソコンを持っているなら、電子書籍を試してほしい。僕はサッと目を通すときは電子書籍、じっくり理解したいときは紙の本を使う。この違いは体験的にそう感じるだけだが、どちらも「読むこと」が軸にある。
読書離れの本質
このようにすると一旦は、書店が不利になるかもしれない。しかし時代の読書離れは、定番的な本が売れなくなったことにあると考えている。一度読んで終わりの本は人生にノーカウントとは言わないが、再読する本に出会うために多読する――それが本来の読書の姿だと思う。
本の業界は売れる本だけを考えるのではなく、「文系人生の糧」になる存在を目指してほしい。読書が日常になる人生が増え、定番本に安心できる書店が増えたとき、読書離れの問題は終わるだろう。
全員が読書をするという頭数の問題ではない。文系力を必要とする人が、自分の姿を見つけられると知っている社会。そのための土壌が、今の社会に欠けている。