あったかもしれない幸せ
東欧の亡命作家の小説が私にはしっくりきます。ロスジェネ世代の特徴が、彼らの描く世界と重なるからです。居場所のなさ、伝わらなさ、説明できない世界の異常――こうした感覚は、ロスジェネ世代にとって避けて通れないものです。順調な人生でなければタブーに触れずに生きることは難しく、剥き出しの人生を強いられる。そうした体験が、この世代の特異性を形作っているのでしょう。
私の幸せとは、子供の頃の私が悲しまない大人になれていることかもしれません。私たち世代の多くは、怒りというより悔しさを抱えているのではないでしょうか。たとえば、妻子を亡くした人の悲しみは理解されやすいですが、いるはずだった妻子を失った人の悲しみは、ぼやけて見えにくいでしょう。こうした背景を考えると、パートナーと生きるという意味での結婚が、人間にとって意外なほど重要に思えてきます。それは、アウトサイダーとして生きることを余儀なくされた人間にとって、動物的本能とも結びついたものなのでしょう。
就職氷河期世代とロスジェネは完全には一致しないと思います。就職氷河期より少し上の世代でも、就職後に職場が崩壊し、再起が困難になった若手は、失われた世代に含められるはずです。問題は、社会で成長する時期を奪われ、見切られ続けていること。この点で、両者に大きな差はなく、同時に世代が限定されない問題だと思います。
この社会の様子では、「ロスジェネ」だけは一生働き続けることになりかねません。その剥き出しの身を守るには、子孫を持つことや、年下の世代と家族並みの強いつながりを持つことしかないのかもしれません。我々は社会から「例外」として扱われています。昭和の有機的なつながりの社会から締め出され、現在の組織化された社会にも拾われない。政治経済的な故郷を持てず、あったかもしれない人生に恋焦がれる。亡命作家たちのように、私たちが持てるとしたら、望郷と愛しかないのかもしれません。時代が勧めてくる制御に身を任せていても、対象の世代とは思えないものだらけです。
心理面を考えれば、私たちは過去にやり残した思いを解決しなければならない状態にあります。未練が現在に悪影響を及ぼすなら、過去はもう相手にしないという態度ではなく、しっかりと終わらせることが必要です。怪我であれば自然治癒だけでなく、外れた関節を戻すような対処があるように。
記憶が腐敗する前に、選べなかった選択肢の結果を複数シミュレーションする。そうすればおそらく、抱えていた思い以外にはなかったとまでは思わなくなるでしょう。私の場合、その助けになったのが小説でした。おそらく多くの人にとっても、小説は過去を終わらせる力を持つ物だと思います。
パソコンが普及し始めた頃、私たちはそれを学びの道具として期待していました。しかしどれだけの人が、考える力を強められたでしょうか。今になってわかることは、時間をかけて考えることでその力がつくのだとわかります。しかし当時、そうした視点はあまり語られていなかったように思います。産業の売り込みだったのでしょう。
時代の夢を人々が見て、後からその正体に気づくことだらけです。大抵の人はその夢の正体がわからず、または夢を見た後の行動、稼ぎにシフトできずに脱落しました。だいぶ生きてきて、「これからの時代は」といった言説は、過度に好意的な言葉だったのを体験してきたはずです。そうでなければ、私たちはそれを夢のように思わなかったでしょう。しかしその時代が信じる成功への夢は、裏を返せば売り込むための言葉でもありました。そのような大掛かりな「企画」もいつしか現実に直面して崩れ、「企み」として恨みに変わり、それが東京オリンピック以来目立つようになった、乱暴なプロデュースへの怒りのニュースだと思います。
私たちはこの、情報が産業化していく変化を見てきた世代だと思います。冷静に捉えれば、その正体を知っているはずなのですが、良かった思い出に抑え込まれ、気づかない人も少なくないようです。
道具や仕組みが進化しても、内側に熱がなければ結果は出ません。むしろ、熱がないから道具に期待してしまうのでしょう。努力を「強いる」必要はないにしても、自分の得意技を社会に活かせる人が生きやすいのは確かです。仕事や人生はそのくらいでよかったと思いますし、内面的なものを燃やして活躍すればよい社会があるのなら、生物的に順当なものに思えます。
そう考えると、ロスジェネだけがロスジェネではないと思えます。この意味不明な時代のルールを、理解できない人々が迷い、不安を抱えるのは、世代を超えて増えているように思えます。
大衆は「労働者」から「被雇用者」へと変化しました。「働いてもらおう」と個体を預ける立場から「契約しますか?」と問われる魂を預ける立場へ。企業はこの会社に従う喜びをアピールします。この状態にAIが拍車をかけます。機械が人間にとって奴隷に位置するものだとすると、人間が機械と張り合わなければならなくなっていくこの状況は、自動的に市民が奴隷の方に移行しているといえます。
AI による未来が好意的に語られ、倫理面は無視されて時代が進行しています。実際には経営管理部門がデジタルAI 化で簡素化することで、世界で生き残れる企業になるはずですが、日本では雇用者側が余計な負担を担っています。これで賃金と税金が楽になるはずがありません。共倒れの構造になっているのです。
また個人としてAIの影響が深刻なのは、人間の精神が機械化していくことでしょう。問題はAIが人間を支配するのではなくて、人間が勝手にAIに張り合おうとしてくことで、AI似になっていき、心の反応まで機械的にされていくことです。
他人に指示されることには自由を感じませんが、ジュニア世代は先行世代の指示に直接接してきました。団塊からバブル世代は、ベテランになれば指示を出すのが当然とされた時代に生きていたと思います。私たちは、自分の意見を「ひとまず」伏せ、上位者の指示のもとで動くことが中央的な時代に、少年期や若手時代を過ごしました。その時代の反発が、少年犯罪の多さにつながっていたのだと思います。
時代が進むにつれ、その呪縛は薄れていきました。しかし今度はメディアが市民を誘導するようになりました。上下構造が雰囲気から装置化したと考えれば、さらにタチが悪いように思えます。結局、どの世代も他人や仕組みに従うことを学ばされてきました。そして、今では電話やネットを通じて、指示役という上司に従うようになってしまいました。
企みに気づかなければ、指示されることに疑問を持たずに制御されていく。また、気づいていたとしても、上役の言う通りにしていれば、少しずつ抵抗感が薄れていくものでしょう。こうした状態に自由はありませんが、慣れによってそれを不自由とは感じなくなっているのだと思います。
ある説によれば、権力の集中はいずれ経済の停滞を招き、開放的な状態が経済発展を促すといいます。権力が集まる世代が生まれれば、その指示に従う世代も生まれます。このような振れ幅が少ない国ほど、経済の将来性が高いのでしょう。
ともかく、拡大期に乗った団塊世代は大きなリターンを得ましたが、停滞縮小期にあたる世代は投資的な意味で損をしているでしょう。勝ち組と言われた人たちやその後の世代は、グローバル化の拡大の恩恵を受けましたが、今やグローバル経済も停滞縮小に向かっています。この社会にやってくる21世紀生まれのZ世代とロスジェネは、その点で時代状況が重なっているように思えます。
勝ち組の子たちが、親世代が作った負圧の中で生きていくのかもしれません。結局、拡大期にどれだけ現役で活躍の中心にいるか、または時代に適した能力を持つかが、残酷なほど人生の分岐になる社会なのです。このように人間の条件が決められているようです。
受け手世代の多くの人は権力側に立たず、次の世代が別の時代の権力側に引き込まれる。この視点では、ホワイト世代(指示世代)とブルー世代(受け手世代)が存在し、ロスジェネだけがブルー世代とは限らないでしょう。ブルー世代は、人間的な社会に代わり政治経済組織になった社会の価値にそぐわず、半分アウトサイダーです。
これは、自立を稼ぐことだけだと思い込んでいる、金融空間に閉じ込められた市民側が生み出した問題でもあります。であれば、日本の教育が、現実空間に自立する思考を育まなかったことが原因の一つです。指示や仕組みに従う教育は、起業家か優秀な部下以外の人生を排除することにつながります。あの頃はそれでもよかったのかもしれませんが、準備された答えを出せるように訓練する教育や褒めて伸ばす教育では、上層の顔をうかがう力になり、内面が情報的な正しさにクラウド接続され、他者の制御から抜け出せません。確かにそうすれば大衆の心理操作ができ、セールスもしやすくなります。そうならないために、向こうから勝手にやってきた話を疑い、自らよりよい答えを生み出す力を育む教育が必要だと思います。
個人の責任ではない時代の脈動は、社会的な分配で薄めることができそうだと思いますが、情に欠けた稼ぎの社会に社会保障などは期待できません。現状は自分優先の価値観が強まり、寛容さが失われています。
没落した先で落ち着くことすら許されず、現実に一生慣れることができない人間を産んでいる社会。娯楽としての勝負は構いませんが、人生を勝と負けとして、負かすことを強制するならば、倫理的に大きな問題です。そして、その言い訳として「自助」や「自己実現」が持ち出される。
かつてポジティブ人間が好意的に語った新しい日常は訪れませんでした。信じ込ませても、多くの人間はそのようにできないし、今や明るい未来を想像することは困難になっています。そのために、崩壊をもたらす予感のある未来志向の人間が選ばれているのだと思います。それは未来に期待しているのではなく、現状の加速崩壊を望んでいるのです。
半分鬱を抱えて歪みを隠す努力をして、生きるしかないのでしょうか。しかしそれならまだ社会のシステムにくらいついています。社会に屈することも選べす、歪むことができずに死ぬまで剥き出しで生きなければならない者ももう珍しくありません。
見ようによっては出家的なスタイルは、女性の方が多いように見えます。動物的な部分を出して本能的な後悔をしないよう生きようとしているのは男性に多いように見えます。このようなスタイルをとる場合には、より自衛的な人生観が備わらなければならないでしょう。
理想論で飾られた経済活動も、企みが増え、機会の平等が詭弁に堕した現代。私たちは社会の企みを疑い、より自由で豊かな生き方を模索すべきです。面倒なのは人間関係ではなく、社会構造とそれに合わせていく人々の常識が不自然なところです。猫同士だったらそこまで追い詰められないしそこまで面倒ではないでしょう。逃げられない社会の「契約」が面倒なのです。
(一部がどうしても接続できないのですが)レヴィナスが説いていた「全体性と無限」に重ね合わすと、社会の握力から逃げられない全体性の社会と、繋がりによる社会ということなのでしょう。個人主義という言い方をしますが、全体性の中の個人主義ではなく、社会性による関係力で成り立つ個人主義にならないといけないのでしょう。私たちは神の亡霊を葬らなければならない。他人や仕組みに流されるのではなく、持ち前の意思を取り戻すことです。
私たちの世代に限らないのですが、現在の挑戦者は失敗が怖いのではなく、脱落が怖いのだと思います。だけどもう脱落していることに気づいていない。ともかく最大多数の最大降伏の世界観は、取りこぼされた人々を気にしないようです。むしろ積極的にいえば、少しの犠牲で幸せになるという考え方だと思います。友敵に線を引き、はみ出したやつを排除すれば高効率という設定に感じます。社会は人に選択を強制し、場合によっては追放する。現代社会では、脱落はかなり身近なもののようです。