おーい桐島、一緒に帰宅を目指そう
固定された信念と対話不能の社会について
全国指名手配されている人物が確認されたというニュースを見て、驚いた。それについてどう感じるかは置いておいて――そこで一つ考えた。
「対話が大切だ」と言われるけれど、固定的な信念を持つ者をどう防げばいいのか、という問題だ。対話が広まることは僕の希望のひとつではあるが。
信念そのものが問題なのではなく、固定的で固形的な信念が問題なのだ。少なくとも、対話によって人が変わり得るのであれば、信念そのものは柔軟で、動的でなければならない。即興性のある態度や、現在感覚を持っていれば、そこに問題はないだろう。
一方で、指名手配者が逃げ続ける動機に信念が失われていたとしても、対話が成り立たないことには変わりがない。そして大事なのは、後から条件を整えるのではなく、あらかじめ対話の条件を備えておくことだ。問題が起きてから対話を始めても、たいていはもう遅い。
例えば、「地元住民への説明」が必要になってから事態が動くケース――そんなものをいくらでも見てきた。それに加えて、固定的な信念がそこにあれば尚更だ。
普段から対話や会話を重ね、共有の興味があろうがなかろうが、言葉を交わせる関係が必要だ。外部から与えられた正解を暗記するのではなく、思考後の判断が軸にあること――これがあれば、議題がなくても言葉は交わせる。
対話の条件と「知り合う」こと
固定的な信念に閉じこもると、人はエコーチャンバーに包まれる。たとえ対話能力を持っていても、環境が失われていれば意味がない。対話の社会が成長するためには、興味を持つ力や、知らない人と接触する可能性を備えることが重要だ。
知らない人と話してはいけないと、口酸っぱくしつけられた世代にはタフなものかもしれない。さらに現状のデジタル環境では、共通する条件のもとに閉じてしまう。また、嫌われても嫌ってもいいという考えに囚われているのなら、対話をしても変化が起きないかもしれない。
愛想とか敵意のなさそうな様子とかそういった社交性があって、ある程度はできたほうが動物的にも素直だと思う。そんな手触りのある人であることや、公共的な接触可能性を備えていなければ、対話の社会は成長しないのではと思う。
仮にその人に社交性が備わっていても、そういった環境が失われているとは思う。対話社会にはずいぶん課題があるものだ。
よく耳にする、「出会い」「出逢いに行け」という言葉には違和感がある。出会うという言葉には、位置・時間・条件の一致が含まれている。対話の本質は、出会いではなく「知り合う」ことだ。
知り合うというのは、相手の謎とのセッションだ。出会いが「理的」で「結果」なビジネス的な響きなのに対し、知り合うには情や勘が必要だ。
アプリのマッチングが典型だろう。スペックや条件が先行し、条件が合う相手に出会えたとしても、それは「名刺交換」のようなものだ。アプリがなくてもすでにうまくいく人、条件が揃った人から抜けていく形になっているし、答えが先にあるからその後にずれていく。交流条件を少し減らして、相手の謎を引き出せるセッションを大事にすべきではないだろうか。
「正解」に動かされる社会の問題
何十年も街に貼られたポスターだから、思い出せる。ふと思、僕があんな笑顔をしたのはいつのことだろうかと悲しくなる。
今の社会には「理」ばかりで、情や謎のセッションがなく、自分でやりたいこともない指示だらけの世界だ。僕にもその怒りはある。悪事は悪事だと思うし、意見が合うわけでもないけれど。
僕たちはどこに帰るのだろうか。
画面には大量の宣伝やPRが押し込まれ、誰かの正解に動かされる社会が出来上がっている。欲しがるように仕向けられ、政治に無関心だと非難されても当然だ。他に興味引きすぎ。何もかも欲しがらせすぎだし、自論を押し付けすぎだ。
この問題を放置して他の問題解決を進めようとしても、ザルだ。政策で生活に余裕が生まれても、結局は「欲しがらせ」に狙われるだけだ。金の動きは生み出せるだろう。でも学校にいる時間だけ増えても頭が良くなるわけではないのと同じだ。そっちの数字じゃない。
競争社会への参戦を強いられても、誰もが幸せになるわけでもない。教育やメディアで、人々をコントロールしやすく変えていくことがただひたすら歪んでいるでしょ。
考えが固定され、対話不能になった相手は「情報」の装置だ。僕たちはそこに問題の根を見なければならない。