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【短編小説】つくりすぎないように

 ある絵描きはすべての画材を捨てた。
絵を描こうとしたとき、すべてがわからなくなった。物の形や描き方、
人体の構造やデッサンの方法、色の使い方などすべてだ。
今日になって急に、そうなった。

 絵描きは今まで描いた絵を見直すと、どれもが陳腐で矮小な落書きにしか見えなかった。一番のお気に入りの絵だって幼稚園児が描いたママの絵の方がマシだと思えるほどだった。
才能がないのだ。忽然となくなったのだ。いや、最初からそんなものはなかったのだ、と思って画材をすべてゴミ袋へ突っ込んだ。

「よう。いい絵は描けているか?」
友人が訪ねてきた。絵描きは事の仔細を話した。
「イップスとかスランプってことじゃないか?」
この友人はスポーツが好きだ。だからこういった例えを持ち出してくることがよくある。
絵描きはスポーツにはまったく興味がないので、それはなんなのだと尋ねることがよくあった。今回もそうだった。

「いいか?イップスってのは、今までやってきたこと、できたことができなくなることだ。簡単に言うといつもやっていた作業自体ができなくなることだ。スランプも同じような感じだが、決定的に違うのはスランプはいつもやっている作業自体はできはするが、結果が伴わないって感じだ」
絵描きはおそらくイップスだろうと思った。
絵を描く動作そのものができない、できる気がしなかったからだ。

「そういう時は、酒をしこたま飲んで泥のように眠る。起きて好きなものを好きなだけ食って、でかいクソをする。そしてまた眠る。そうしていると
また感覚は嘘のように戻っているものさ」

 絵描きはゴミ袋に乱雑に入れられた画材たちを見つめた。
画材たちは絵描きの方は見ず、無視ているようだった。画材の方からお前のしょうもない絵に付き合うのはごめんだ、と言われているような気がした。

友人は数時間、話をして帰った。

 絵描きは、コーヒー豆が切れていたので市場まで買いに出ることにした。
市場には人が溢れている。色とりどりのテントに色とりどりの野菜や果物が並んでいて、店主たちは大きな声で呼び込みをしている。

 いつも買うコーヒー豆の店はどこだったかな、と市場を探索していた。
同じところを何度も往復したが、いつもコーヒー豆を買っている店が見当たらない。店じまいしてしまったのかと思った。
気前のよさそうな中年の女が果物を売っている店の前で立ち止まり、コーヒー豆の店がどうなったか聞いてみることにした。

「はいよ!イチゴひとパックだね。120メルツだよ。ありがとね」
さすがに何も買わないわけにはいかないので、単純に美味しそうに見えたイチゴを買った。

「え?コーヒー豆の店かい?いつものところに今日も出ているよ」
何度も通ったが店が見当たらないのです、と絵描きは訴えた。

「あぁ。あんた、その店をちゃんと通ってるよ。主人が最近死んじまってね、後をついだのが主人の娘なんだよ。だから店構えが変わってね。
やたらおしゃれに、かわいくなってるんだ。もはやコーヒー豆の店だとは思えないぐらいにね」

絵描きはおそらくここだったはずだと思うコーヒー豆の店の場所へ向かった。何度も往復した道だった。
このあたりにあったはずだ、と店を一軒一軒目を凝らしてみていると
確かに見覚えのあるコーヒー豆が入った麻袋が見えた。

確かに、以前のこの店は無骨で男っぽい印象だった。
焙煎という仕事を技術屋として捉え、余計なものは置かず呼び込みもしない。ただ焙煎の匂いだけで客を釣っていた。
それが今では、おしゃれに設置された丸椅子があって屋台風になっている。
若い女が立っていて大きなこえで呼び込みをしている。

コーヒー豆を売るだけの店から、焙煎した豆を使って喫茶を始めていた。
もちろん豆自体も売っているようだった。
絵描きはその店に近づき、いつもの豆をくださいと言った。

「いらっしゃい。いつもの?えっと。それは何かしら?私最近この店に立つようになったからわからないの」

絵描きはそれもそうだと、豆の種類とグラム数を答えた。

「あなた、もしかして絵描きの方?」
店の女は気が付いたかのように絵描きをみた。

絵描きはそうだけど、なぜ知っているのかと訪ねた。

「あのね。父が、この店の前の主人ね。たった一人だけのために焙煎している豆があるんだって言ってたのよ。死ぬ前にもうそろそろ買いに来る頃だろうから準備しておけって言ってたの」

 絵描きはあのコーヒー豆が自分しか買っていないことに少し恥ずかしさを感じた。人気のない豆だったのか、人はおいしいと思わない豆だったのか。
それをいつもいつも買いに来る珍しい客だと思われていたのかもしれない。

「あの豆はね、父が大好きな豆だったのよ。いつもあなたが買ってくれて嬉しいと言っていたわ。少し待ってちょうだいね」

 若い女は棚に並んだ瓶を指を差しながら探している。
ひとつの瓶の前で立ち止まり、抱えてテーブルに置いた。
秤を瓶の隣に並べ、紙袋を用意した。
秤の数値を気にしながら入れ、絵描きが希望するグラム数まで到達し、
紙袋を閉じた。
絵描きは紙袋より瓶の方に目がいった。
瓶の中のコーヒー豆は、もう底の方に少ししか残っておらず
数えようとすれば数えられるほどだった。
これでは次に買いに来た時には同じグラム数を買えないと思った。
絵描きは今度会来る時にはまたこの瓶はいっぱいになっているのかと訪ねた。

「この瓶はいっぱいになることはないわ。だってあなたしか買わないんだもの。あなたはいつも同じグラム数を買うでしょ。だったらその分だけつくっておくわ。日が経つと味も落ちるしいつもベストな状態の方がいいでしょう」

ではなぜ前の主人は瓶いっぱいにつくっていたのか、と絵描きが尋ねる。

「さぁ。見栄えかな。瓶いっぱいに入っていた方が見栄えがいいからじゃないかしら。私はね、見栄えより味で勝負するの。つくりすぎてしまって日が経って味が落ちるのは嫌だわ」

絵描きは紙袋を小脇に抱え店を後にした。
あの瓶はこれからいっぱいになることはない。なぜなら絵描きたったひとりが選ぶ豆だからだ。一抹のさみしさを感じながらも、若い女のあの自信満々な態度に敬意を表した。

——つくりすぎてしまって日が経って味が落ちるのは嫌だわ——
その言葉を頭の中で何度も反芻した。
つくりすぎてしまうことで味を落とす結果になってしまう。
絵描きの足取りは自然と早くなった。

自宅へ戻り、コーヒー豆を引いていつものコーヒーを淹れた。
コーヒーを飲みながら一服し、窓から通りを眺めた。
行き交う人々、立ち話をする人。

絵描きは、ゴミ袋へむかい捨てたはずの画材を引っ張り出した。
もう一度きれいに絵の具をならべ、筆を揃え、パレットを洗った。

絵描きは絵を描きすぎたのだと思った。
友人が言うイップスだったのだろうと納得した。
——つくりすぎてしまって日が経って味が落ちるのは嫌だわ——
また若い女の言葉が再生される。

絵描きはたぶん絵を描きすぎて日が経ち、絵の味が落ちてしまったのかもしれないと思った。絵の枚数の話ではない。
ずっと同じ気持ちで、惰性で、描かなければならないという気持ちで描いていたのだと気が付いた。

はじめて筆を持った時、絵を描きたいというよりも何かを表現したいと思ったことに改めて気が付いた。そんな気持ちを忘れ何枚も何枚も絵を描き、
瓶をいっぱいにしてしまった。
その絵は誰も見るものはおらず、瓶の中で味を落としていったのだ。

絵描きはイーゼルとキャンバスを準備し、その前に座った。

絵描きは、今描けるものだけを描こうと思った。
毎日が初日だと思うことにした。

満たされる分だけ、必要な分だけ、気持ちを込めて、
自分の表現だけを腹に据え描いていこうと思った。

いつものコーヒーはほんとうにおいしい、と絵描きは笑った。





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