【短編小説】もう一歩前へお進みください
こんなに酔ったのは久しぶりだった。
職場の人間の送別会だった。
二十四歳のマキちゃんの寿退社を祝う会である。
マキちゃんは誰からも好かれていた。
あの仏頂面の課長でさえ、広角が上がる。
取り立てて美人でもないし、お世辞にもかわいいとは言えなかった。
しかし、愛嬌だけは抜群だった。
セクハラまがいの話題にも笑って返すことができたし、
つらいお説教もちゃんと耐えることができた。
新人の教育も、持ち前の明るさと面倒見の良さでなんなくこなした。
マキちゃんは誰からも好かれていた。
マキちゃんは短大を出てすぐ、この会社に入社した。
新卒で入社したマキちゃんは初々しかった。
慰安旅行では見事な歌を披露した。
前もって旅行雑誌で名所や見所はもちろん、旅行雑誌に載らない女子社員が好きそうなカフェや雑貨屋なども調べてきた。
マキちゃんは誰からも好かれていた。
ただ強いて欠点を挙げるとすれば、朝が苦手だった。
社内の遅刻ランキングではぶっちぎりで一位を獲得した。
それはうちの会社の始業が他の会社より若干早いこともあった。
それ以外では何も悪いところはなかった。
人生を楽しんでいた。
彼氏こそいなかったが女友達も男友達も多く、分け隔てなく接した。
そんなマキちゃんが寿退社をする。
「マキちゃん、いつのまにか彼氏つくってるんだもん。隅におけないね」
同僚たちはこんなことを何度も何度も、壊れたレコードのように繰り返していた。
「マキちゃんはいい嫁さんになるぞ」
上司はそう言いながらマキちゃんにベタベタ触った。
今更になってマキちゃんを女として性的な目で見始めたのがありあるとわかる。吐き気さえ催すその態度は見るに耐えなかった。
「お相手はどんな人?」
マキちゃんよりもずっと年上の独身女が相手の男のことを尋ねる。
先に結婚されたものだから多少なりとも嫉妬や妬みが滲み出ている。
どうにか上に立てる部分はないか、何かその男に欠点はないか、
それを探るための下品な質問であることは誰の目にも明らかだった。
マキちゃんは素直だからその質問にもちゃんと答えた。
私は送別会でたらふく飲んだ。
気持ちの悪い上司と性格のねじ曲がった年上の独身女の下品な質問に
耐えるためには飲まずにはいられなかった。
「井村さん、大丈夫ですか?」
いつもよりペースが早い私をマキちゃんは気遣った。
その時、私はすでに酩酊していた。
マキちゃんの声が遠くで反響して聞こえてくる。
そこにいるのにどこか遠くにいるような、遠くにある深い穴の中から
私をよんでいるような声に聞こえる。
「私が辞めちゃうとさみしいですか?」
「そうだね。社内の空気がちょっと暗くなるかもね」
「そんなことはないですよ。まだ箭内さんも内野さんもいるし」
「そういうことじゃないんだよ。マキちゃんだからこそみんな明るく楽しくできたんだ」
「そういう風に思っててくれたんですね。うれしいです」
マキちゃんはグラスを両手で抱え、少し俯いた。
「幸せになってよ」
私は精一杯の言葉を贈った。
「井村さん。実はこの結婚は私が望んだものではないんです」
遠くの穴から反響する声の感度がぐっとあがった。
体内にあるアルコール成分をすべてのカロリーを使って分解し始めた。
「どういうこと?」
「私の親は、田舎で工務店をやっていました。小さな会社です。
仕事も細々としたもので、生活もギリギリ、いえギリギリというか工務店の仕事だけでは生活ができなかったんです。
だから父は借金をしました。工務店の設備費とか人件費と生活費のために。
そして数年前、あの事件が起こって、ほどなくしてワールドシンギュラリティです。私の父の工務店の仕事を格安で機械が請け負うようになりました。
細々とですが続いていた仕事がすべてなくなりました。
それを機に、父は体調を壊して入院しました。
その時、その病院の息子さんが私を気に入ってくれて結婚の流れになりました。
だから私は彼のことは好きというか、愛してはいないんです。
もともと好きなタイプではないし」
「好きでもない人と結婚するってこと?家族のために?」
マキちゃんより三歳年上の内野さんが上司に肩を組まれ、よく知りもしない流行りの歌を歌わされている。
それを笑って囃し立てる男たち。悲鳴と歓声の間の不思議な声を上げる女たち。その声がうっとおしく、撃ち殺したい衝動に駆られる。
「誰にも言わないでくださいね。井村さんだから話したんですよ」
マキちゃんはそう言うと、両手で抱えたグラスを私のグラスの横に置いた。
遠くでマキちゃんを呼ぶ声がする。
元気に返事をしてマキちゃんを呼ぶ声のする方へ向かう。
マキちゃんの話の間にはアルコールは分解できなかったようだ。
席を立って歩くマキちゃんの後ろ姿、いやふくらはぎを見送った。
私もあの吐き気を催す上司と同じ性質を持っていることに改めて気づき、
撃ち殺されるべきは自分だと思った。
それからの記憶はない。
気づけば後輩に抱えられ、駅までの道を歩いていた。
意識がはっきりしてきたので、後輩にお礼を言って別れた。
この後輩とは帰り道が途中まで一緒だ。
乗る路線も同じだったが、用事があるからと言って駅に着く前に別れた。
後輩はずっと心配して、帰りましょうと言い続けていたが語気を荒げる私に怯えたのか面倒臭くなったのか諦めて駅までの道を歩いて行った。
時折振り返り、私の状態を確認していた。
私はいい後輩をもった。後日、謝ろうと思った。
あてもなくぶらぶら歩いていると公園に差し掛かった。
その公園はきれいに整備されていた。公園の端に公衆トイレが見えた。
尿意を催した私はその公衆トイレで用を足そうと思った。
これだけきれいに整備された公園だから、トイレもそこまで悪くはないはずだ。
公園の真ん中をつっきる。
ブランコの前を通る時、ブランコの鎖を揺らしてみた。ギッギッと不快な音で数回鳴いた。滑り台を逆からのぼった。一番上に立った。
子供にとってはそう思えないかもしれないが大人にとっては幾分狭く怖い。
滑り台の階段を気をつけて降りると、少し先に公衆トイレが見える。
トイレの灯りが周辺を照らしていた。
そこまで歩きながら、ふと携帯を確認した。
マキちゃんからの着信が数件あった。酩酊した私を心配してくれたのだろう。もう夜も更けていたから明日、メールでもしておこう。
——だから私は彼のことは好きというか、愛してはいないんです。
もともと好きなタイプではないし——
また遠くの穴から反響してマキちゃんの声が聞こえる。
今は、マキちゃんはそばにいない。だからこの声は私が脳内で反響させているだけの偽りの声だ。だからこんなにもさみしげに艶かしく聞こえるのだ。
——結婚すれば入院費や父と母の生活費の面倒はすべて見るからと言ってくれました——
マキちゃんは家族のために好きでもない男と結婚する。
私は妙な義務感を感じていた。それと同時にその義務を行使すれば大変なことになるからやめておけ、という内なる声もする。
公衆トイレに入って、小便器の前に立つ。
ビジネスバッグを肘に通し、チャックを開ける。
マキちゃんの結婚を阻止するべきか。私にその資格はあるのか?
酩酊し意識が混濁する中、マキちゃんが私に最後に言った言葉が蘇った。
——誰にも言わないでくださいね。井村さんだから話したんですよ。
私は来月《アオゾラ》の施設に入るんです。家族と一緒に。
だから井村さんと最後にお話しできてよかったです。実は私ね、——
その瞬間、遠くで誰かがマキちゃんを呼んだ。マキちゃんは元気よく返事をした。両手で抱えたグラスを、私のグラスの隣においた。
勢いよく小便は放出された。
便器にあたる音を聞きながら、マキちゃんの言葉が途中で遮られていることが気になった。
——井村さんと最後にお話しできてよかったです。実は私ね、——
マキちゃんはこの後、何を言おうとしたのか。
その言葉で私の妙な義務感の行方が決まるかもしれない。
小便がとまらない。
私は今にも駆け出して、マキちゃんに電話しもっと深い話を聞き、
二人で逃げ出したいのかもしれない。
正直そこまでしていいものかという迷いもある。
が、なんせ小便がとまらない。
ふと顔を上げると、目の前に貼り紙があった。
《もう一歩前へお進みください》
小便がとまった。