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【長編小説】分岐するパラノイア-schwartz-【C20】

<Chapter 20 或る男の逸話(二)>


彼は大学進学を目的としたクラスに入った。
正直彼は大学進学なんて考えてもいなかったが、
彼の両親のたっての希望だった。

第一志望の高校に落ちて、親戚縁者の手前なにかに合格しないと恥ずかしいという思いから彼に大学進学のためのクラスをゴリ押しした。

彼の両親は言うだろう。
「あなたが行きたい、進学のためのクラスに入りたい、とそう言った。」

そんなわけない。
結果的に、納得せざるを得ずYESの意思表示はしたかもしれない。
むしろそのクラスに入るためには試験があったので自分の学力では
その進学クラスさえ落ちるだろうとタカを括っていたので
試験さえ受ければ両親も納得するだろうと思ったから結果的に、なし崩し的に納得せざるを得なかった。

友達に誘われたからという理由で第一志望を決めたような人間が
大学に行きたいなんて高校卒業後の話なんて考えているはずはないのだ。

彼はただ、空気のような生活をしていた中学校やその同級生と離れて
心機一転、高校生活を単純に楽しみたかった。

一般の高校生のように、みんなでワイワイ楽しみながら、
学校帰りにカラオケやファーストフード店へ寄り道したり、
夏は花火、海やプールへ行き、文化祭や体育祭を楽しみ、
その中で何度か恋をして、実らず、でも腐ることなく
また恋をする。
そういう当たり前の高校生活がしたかった。

その希望はものの見事に打ち砕かれる。
彼が入ったクラスは楽しい高校生活とは対極にある【収容所】だった。


公園のブランコは今の私にとっては小さくなりすぎた。
不気味な音をたてるブランコをそっと手でとめ、
ブランコを後にした。

またゾンビのように歩き始めた。
次はどこに行こうか。
私のような人間が行ける場所なんて他にあるのか。

そもそも映画などで見るゾンビはウロウロ歩き回っているけれど
実際目的があって歩いているのだろうか。
たまたま人間を見つけて襲いかかり、屈強な主人公に
銃で蜂の巣にされる。

よく自分の人生は自分が主人公なんて言葉を聞くが、
そうではない人間もごまんといる。
自分の人生でありながら、自分の人生の中でさえモブキャラの人間。

私のように、ただのゾンビはウロウロ歩き回って結果主人公に
銃で蜂の巣にされ、その場に惨めに倒れそれ以降は一切見せ場なんてない。

生きているゾンビ。
生きながらえるゾンビ。

公園から出て、何歩か進んだ時またブランコの不気味な音が聞こえた。
振り返ると、そこには小さな少年少女の集団がブランコで遊び始めていた。

ブランコは大きく揺れる。
行っては戻り、戻っては行き。小さな板の上に少年は立っている。
何かを叫び、それを聞く他の少年少女は笑っている。

彼らは鎖で手が汚れることは気にしない。
高く高く上がることを怖がったりしない。
今はまだ。

手が汚れることや、高く上がることに不快感を覚えるのは、
それが汚いことだ、嫌なことだ、怖いことだ、ダメなことだと
教えるだれかがいるからだ。

私はまた歩き始めた。


彼の高校生活は収容所のような生活だったが、彼にとってそれは
嫌なことでだけはなかった。

担任からの勅令で希望の高校生活ではなかったが収容所としての
機能である【隔離】は、同級生に会いたくないという彼にとって
楽だった。

担任はすこぶる厳しく、クラスにいる生徒一人一人、個々人で立ち向かうことは不可能だった。
それはクラスに掲げられたルールである【連帯責任制】があったからだ。
誰かが粗相をするとクラス全員が殴られる、というかなり肉体派の罰が待っていた。
そのせいで、彼のクラスは一致団結をせざるを得なかった。

そのことも彼にとっては、結果的にいい状況だった。
なぜならば【連帯責任を回避するための一致団結】という明確な指標があったからだ。

友達、という概念が彼はわからない。
好き、気が合う、話が合う、など一般的に言われる友達づくりの基本に則った場合、彼を友達だと思う人はこれまで現れてはいなかった。

しかし、【連帯責任の回避】のために本人の趣向は関係なく
話をしなければならない、周りの人間のできることできないこと、
得意なこと不得意なことを知らなければならなかった。
そして、自分が不得意なことは誰かに補助をしてもらわなければならないし、誰かの不得意はカバーしなければならない。

彼にとっては何か意味がある人間関係の方が楽だった。

彼はもれなく大学へ進学することになった。
彼の希望は大阪や東京へ行きたかった。
しかしその願いは彼の両親によって却下された。

しかたなく、電車で1時間半ほどの県外の大学へ行くことになった。


行き先がなく歩くことはとても不安だ。
他の人はどうか知らないが、私は不安だ。

行き先がないことと、行き先がわからないことは違う。
行き先がわからない場合、私は道中を楽しむことができる。

行き先がわからない、ということは逆を言えばどこへでも行けるのである。
しかし行き先がないということは、もしかしたらどこからも拒絶され、
追い出された結果なのかもしれない。

私は社会から追い出された社会不適合者だ。

社会と折り合いがつけられず、うまくやっていくことができない。
うまくやっていこうとも思わない。

私はレールの周りをウロウロ徘徊するゾンビでいい。
レールの上の電車から一斉放射を浴び、蜂の巣になることもある。

それでもいい。

スマホを見ると、画面にはゼラニウムが咲いている。
このゼラニウムは私がレールを降りたからこそ見れる花である。

こんなに美しいゼラニウムがレールのそばに咲いていることをレールの上の電車の中の人間は知らない。

ゼラニウムだけではない。
電車からでは見えないすばらしいものがレールの周りにはいくらでもある。
私はそれを眺め、手に取り、慈しみ、愛でることが大事だと感じる。

レールの上の電車は安心安全で、安定していて効率的で早く、目的地へ間違いなく到着するだろう。

私にとってはそんなことは何の価値もない。

画面の中に咲くゼラニウム。
私の中に眠る記憶。
人が持つ記録。
高く高く上がるブランコ。
少年少女たちの声。

ただ、一歩一歩、交互に、足を、出す。
右、左、右、左、右、左。

もしどこか別の世界で同じように歩いている人がいるならば、
「遠いね」とか「まだかなぁ」とか愚痴ぐらいは話しかけよう。
その時は「そうだね」とか「もう少しのはずだよ」とか
どうでもいい返事をしてくれればいい。

私が私自身に聞く最後のインタビューはもう少しつづきそうだ。

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