【短編小説】福音は電波に乗って
朝陽は相変わらず夜勤のバイトを続けていた。
順調に、というわけではなくなし崩し的に行かなければならないという義務感や責任感でしかなかった。
最近、京極とは会えていない。
朝陽からメッセージを送ってもなしのつぶてだった。朝陽の心が晴れないのはそのこともあった。
今日は夜勤のバイトが休みの日だった。
朝陽は休日を持て余した。することが何もないのだ。
朝から洗濯や溜まった食器を洗ったり、掃除機をかけたりした。
飼っている猫のトイレも洗った。
することがないとは言え、やらなければいけないことは山積みだった。
朝陽はその生活という仕事がすこぶる苦手なのだ。
一仕事終えるたびに、一服し考え込んだ。
京極のこと、これからのこと、あの女のこと。
脳が深みに嵌る前にタバコを消し、また次の作業へ移る。そうすることで
考えることを忘れないうえ、自らの思考によって受ける深いダメージを軽減することもできる。朝陽は忘れないこと、考え続けることで自分を痛めつけているのだ。
何度目かの一服の時、めずらしく家のドアがノックされた。
朝陽は固唾を飲んだ。この家のドアをノックする者は京極しかいない。
しかしこのノックの仕方は京極のそれとはまるで違った。
京極のノックは荒々しく、ドアを突き破らんばかりに何度も叩く。
しかし今、叩かれるノックは控えめで回数も少ない。
トントン、トントンとおそらく軽く握った拳の中指の関節で叩いているのだろう。一般的なノックの仕方だ。
控えめであるものの、朝陽が今在宅なのを知っていて是が非でも朝陽を出したいという決意が感じられる。
朝陽はドアノブを握り、外の様子を伺う。確かに人の気配がした。
「どなたですか?」
朝陽はドア越しに正体を尋ねた。
——あの、すいません。隣の者ですけど。隣の中川です——
朝陽は安心こそしたものの、別の驚きに苛まれた。
そもそも隣の人間が中川という名前だということも初めて知った。
朝陽が知っているのは、大学生の男の子の一人暮らしであるということだけだった。何度かアパートの階段ですれ違うことがあったが軽い会釈程度で
言葉を交わしたことはない。
朝陽は何事かと思ってドアを開けた。
そこには色白で細身の男が立っていた。
「なんでしょう」朝陽はドアは全て開けず、顔だけを隙間から覗かせた。
色白の細身の男の目は潤んでいた。よくよく考えれば、ドア越しに聞いた声も震えていた気がした。
「ほんとにすいません。こんなこと頼めないんですけど、少しお金を貸して欲しいんです。ほんとにすいません」
朝陽は彼が悪い人間でないことはわかった。なぜなら潤んだ目と今にも泣き出しそうな表情、すいませんと何度も小声で言っているところから朝陽は同情心が芽生えた。しかしその理由は聞くべきだと思った。
「何かあったんですか?大丈夫ですか?」
彼の膝はゆっくり折れていった。
朝陽はこの感覚を知っていた。彼のものと朝陽のものとは種類は違えど、
体の力が抜ける感覚は他人を見ても理解できた。
「とりあえず、入ってください。さぁ、ゆっくり。支えますから」
彼は朝陽の腕を貪るように握った。
普通の状態で誰かの腕を掴めと言われたら、その腕を見るだろう。
しかしこの状態の人間は腕を見ない。見ているつもりなのだが
目線はどこか違うところを見ている。
脳が勝手に腕を見ていると錯覚しているのかもしれない。
腕を掴む時、脳は腕がある風景を想像はするものの実際は見ていないから腕を一発では掴めない。だから貪るような仕草になってしまう。
朝陽はゆっくり彼をリビングに招き入れて座らせ、
ミネラルウォーターのペットボトルとグラスを机の上に置いた。
彼の息は荒い。
さっきよりも目は潤んでいて今にも涙がこぼれ落ちそうだった。
「安心してください。金額にもよりますがお金は貸します。もし高額で私の範疇を超えていて貸せない場合もどうにかできないか一緒に考えます。
とりあえずいったん落ち着きましょう。私はあなたのためにできることはしますから安心してください」
彼の隣に座り、肩に手を置きゆっくり彼に染み込ませるように語った。
朝陽はもとからこういうことができたわけではない。
むしろこの方法は朝陽が京極にされたことをそのまま真似しただけだった。
——安心しろ。お前の問題は解決してやる。もしわしが解決できないとしてもなんとかならんか一緒に考えてやる。とりあえず落ち着け。
お前さんが取り乱してもなんの解決にもならない。わしはお前さんのためにできることはするつもりだ。だから安心せよ——
駅で蹲った朝陽を救った時に公園で言われたこと、そのままだった。
朝陽は頭の隅で京極の連絡がないことをまだ気にしてはいたが、
今目の前の彼に集中しようとした。
「いったいなんのお金なんですか?何かの支払いとかですか?」
「いえ、あの、僕の付き合っている人が、お金がいるんだって言うんです。
お金がないとダメなんだって」
息が途切れ途切れなのと、話が漠然としていて理解し難い。
朝陽は京極がいてくれれば、と思った。
こういうことには簡単に手を出すべきではなかったかもしれない。
「その人は誰かにお金を要求されているんですか?無理矢理要求されているんだとしたらまず警察とかに相談した方がいいんじゃないですか?」
「違うんです。入会金を払いたいって言うんです」
朝陽は心当たりがあった。
「それは何かのグループ、例えばねずみ講とか悪徳商法とか?
あるいはカルト宗教的な?」
一番最後の言葉が朝陽の心当たりだった。
「いいえ、詐欺やカルト宗教ではないようです。僕もなんだかよくわからないんですけど集団生活みたいなのをしている団体のようです。
ええと、社会で行き詰まった人や生活に困窮している人、高齢者、身寄りのない人などが集まって生活しているんです」
朝陽はそういうのは往々にしてカルト宗教に近いものだと喉元まで出かけたが彼の不安定な心情を察して飲み込んだ。
「そのお金をなぜ君が工面しようとしているの?その付き合っている女性は何に行き詰まって、その団体に頼ろうとしているの?」
彼は言葉に詰まった。
——えっと——と何度も言いながら、彼は息がいっそう荒くなった。
朝陽は、落ち着いてと言いながら彼の背中をさすった。
「女性じゃないんです」
彼の声はすごく小さかった。朝陽は少し驚いたがその素振りは見せなかった。それはこの十数分の中で一番よくできた部分だった。
「そうか。いや勝手に誤解してしまったのはこっちだから。ごめんね。
で、その付き合っている彼は何に行き詰まったの?」
と言いかけた時、朝陽はあることが脳裏に浮かんだ。
月曜の深夜。
決まって深夜にゴミを捨てにいく隣の住人。
ハイヒールの音を響かせ、長い髪のシルエットがキッチンの小窓に映る。
しかし、今ここにいる彼は《彼》なのだ。
月曜の深夜にゴミを捨てる瞬間にだけ彼の中の本質である《彼女》が顔を出していた。
ということは今ここにいる彼の付き合っているという人間は、この彼とは逆、もしくは恋愛対象が同性である可能性がある。
いやそれ以上にいろんなパターンが考えられる。
なんにせよ、そういう人間は今のこの社会ではとかく生きづらいものだ。
怪しい団体に心を寄せるに値する理由であることは内情こそわからないものの形は理解できた。
彼は、そのために自分が金を工面しようとしている。しかも緊急に。
最悪なパターンは付き合っている人が今この時も緊迫した状態にあり、
いっときでも早く入会しないと大事になる可能性が高いということだ。
朝陽はその団体のことをうっすらと知ってた。
それが自分がどうにかできることではないこともわかっていた。
京極の顔が浮かぶ。彼の背中をさすりながら彼の言葉を待ったが、
彼はついに泣き出してしまった。
——大丈夫——
朝陽は彼に何度も語りかけながら、背中をさする。
京極ならなんとかできるかもしれない。何度でも電話をかけてみようか、京極が電話に出るまで何度もかけてやろうか、そう思いながら彼の背中をさすった。
キッチンのテーブルに置かれた朝陽の携帯が震え出した。
この状況に恐怖して震えたのではない。
むしろ、福音をもたらすためにできる限り震えていた。
携帯の画面にその福音が記される。朝陽はその福音にまだ気が付かない。
《着信 京極》
福音はまだ鳴り続けている。