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【釈放!】クソ中学校を卒業、そして閉店。


そうこうしているうちに衝撃的な事件が起きる。
1999年。5月5日。こどもの日。
私の大事な居場所であるおもちゃ屋が閉店することになった。

最後の日は、今までのメンバーが集まり、仲良くしていたスタッフに
声をかけたり、手紙を渡したりした。

「今までありがとう!」と誰かが床にメッセージを書いた。

それを皮切りにみんなが書き始め床一面に感謝の言葉や別れの言葉がぎっしり書き込まれた。まるで大きな寄せ書きのようだった。

しかし、ここはデパートの一画。
デパート本体の店員から「消してくれ。」の一言。
当たり前だ。床に書くなよ。
寄せ書きは色紙に書こうよ。
そう、そうなんだけど。

床一面に広がる感謝の言葉をみんなで泣く泣くモップで消した。
まだスマホなどもなかったので記念写真などもない。

悔しかった。
自分らの望む別れが否定されたことが悔しかった。
もっと他にできることはあったかもしれない。
だけどその時は、この場所自体に何か残したかったという気持ちがあった。

そして、おもちゃ屋は閉店し名も知らぬ友人たちとは
それっきりになってしまった。
今でもどこの誰だったのか、今どうしているのか、
何もわからない。

そんな中でも陰鬱な中学校生活はどんどん流れていく。
高校受験が近い


ここは少し説明が難しい。
地方では大都市や首都圏の方とは「私立」と「公立」の考え方が逆、
つまり私立高校は公立高校の滑り止めである。
要するに地方の皆さんは公立高校に合格することを目標としている。

私の場合は正直、公立とか私立とかよりも
今いるこの学校の人たちとはまったく別のところに行きたいと
思っていたが、そんな夢物語は叶うはずもない。

行きたい高校なんてなかったが、学習塾の友達が
「この高校に一緒に行こうよ。」
と誘ってくれたのでその高校を第一志望にした。
この高校は私たちの世代から総合学科というものができ、
そこそこ人気があった。
学習塾の教師からは学力的には合格ラインだというお墨付きをいただいた。

結果は第一志望不合格。

試験は問題なかった。
問題だったのは面接。集団面接だった。
5人ぐらいまとめて呼ばれて一個一個質問される。
私にされた質問は

“あなたが中学校生活3年間で一番嬉しかったことはなんですか?”
真っ白になった。

嘘やその場を取り繕う言葉すら出てこなかった。
緊張のせいではない。
もちろん緊張はしていたが、真っ白になったのはそこじゃない。

嘘さえも出てこない自分の3年間に唖然とした。
何もなかった。嬉しいことは一つもなかった。

そんな自分がすごく怖かった。
何を答えたかは覚えていない。答えてないのかもしれない。

ただテンパってしまったのは脳みその端っこに
引っかかっているみたいに覚えている。
面接官が「はい、では次の人」と言って私の隣の子に同じ質問をした。

その「はい、次の人」という言葉の音というか、声のトーンというか
呆れた感じで吐き捨てるように言うメロディは、
一瞬にして存在が消える悪魔の魔法のように私の体を通過する。

私はその悪魔の魔法の音を聞いたことがあった。

「できんやろ?」

そう言ってコントローラーが私の目の前を通り過ぎていくあの光景が目に浮かんだ。

あとはいわゆる「内申書」ってことだろう。
学校の教師は白紙で出したんじゃないかってぐらい
彼らは私のことは見えていなかった。そんな生徒をどう書くというのか。

一番最悪だったのは、不合格という結果でも悪魔の質問でもなかった。
一番の最悪は第一志望の合格発表を見に行った時だった。
父も母も「ひとりで見に行っておいで。」と言ってくれた。

絶対いっしょに連れていかれると思っていただけにラッキーだった。
というのも、もう中学生になってから両親とともにどこかへ出かけることや
親戚の家に行くことを学習塾の補習があるだのなんだの理由をつけて
避けていたからこの大イベントは避けられないだろうと思っていたが
意外な言葉で心が踊った。

正直自分の中ではもう不合格は決定していたのだけれど、
ひとりで見に行って帰りに学習塾へ寄ってみんなと会おうと思っていた。
そして掲示板を見ると予想通り不合格。

そんなことどうでもよくて、学習塾の仲間を見つけて学習塾へ向かう。
到着したら合格した子らが喜んでいる。不合格で報告に来た生徒は私ひとりだった。

ほどなくして学習塾に私の家から帰って来いと電話がある。

家に帰ると陰鬱な雰囲気が漂っていた。
学習塾でさっきまで不合格をネタにして、
面接の時の感じをネタにしてひと笑いとって気分が高揚している状態
だったので慌てて笑いのスイッチを切った。

父の目は腫れていた。たぶん泣いたのだろう。
でもどうしてだろう。なぜ泣いたんだろう。

だって、まだ合格発表を見て、そのまま学習塾に行き、
合否の連絡はしていないのにどうして陰鬱な雰囲気だろうかと
冷静になると怖かった。

実は父は私が出る前に家を出て、合格発表を見て、
私の番号がないことを私より先に確認していたのである。

そして私と会場で鉢合わせしないようすぐ家に戻っていた。
だから結果を知っていた。

もうほんとにこの人たちはなんて気持ちが悪いんだろうと思った。
だったらまだいっしょについていく、と言われた方がよかった。
隠れるようにコソコソと見に行っていた。

その後自分の実家(私からすれば祖父の家)に電話をして、
私の不合格を泣きながら伝えたらしい。
泣きながら、というソフトな感じではなく、嗚咽を漏らしながら、子供が泣くようにハードに泣いて、「ごめんね。」と謝っていた、と後日、母から聞いた。

その話を聞いた時、私はなぜ謝っていたんだろう?と考えたけど、
簡単に答えは出た。

祖父や祖母が投資したはずの「長男」が失敗したからである。
投資している商品が公立高校に不合格した、
という不具合が生じたので、生産元として説明責任と謝罪の責任を全うしたのだ。

そう考えるとやはり真面目な人だなと思った。
このぐらいになるともう、親だとかそういう感覚はすでになくなっていて、ただの管理者という感覚だったから腹も立たなかった。

滑り止めの私立は受かっていたので、
母は私立の合格通知を持って来て「はい、じゃこっちね」と
あっさりしていた。

母は母で、どうしてこうもあっさりしているのかと言うと、
中学校の卒業式は合格発表より前に行われるのだが、
その時にもちろん母も出席した。
式典終わりの教室でのワンシーンを見て、私が公立高校には落ちたことを悟ったそうだ。

そのワンシーンとは式典が終わり、生徒は教室に戻り、
ある程度ホームルームの形をとった担任からの最後の言葉が終わり、
あとは生徒同士で写真を撮ったり、
親が担任と話をしたりする時間の出来事。誰かが大きな声で言った。

「みんなで写真撮ろう!先生も!」

みんなが集まり、担任を囲んでいく。
でしゃばりの保護者がカメラを手にポジションを指示している。
他の保護者はその光景を涙ながらにも微笑ましく見ている。

その光景の中に私の姿はない。
隅っこのロッカーを片付けていたからだ。

母はその時初めて私の中学校3年間がどういったものだったのかを
知ったらしい。私のその姿を見て、不合格を確信したそうだ。
これはさすがに母親というか、女の勘というべきものだろう。
母は卒業式が終わった日の夜は終始不機嫌だった。
これも後日聞いた話だが、母はただ恥ずかしかったと。
みながわいわい写真を撮る中、私だけ隅っこで、ゴミを漁るホームレスかのようにロッカーを片付けていたこと。


それが恥ずかしかったと。
私がどんな思いでこの3年を過ごしたかなんて関係なく、
ただクラス内ホームレスのような子を持っている自分が恥ずかしかったと。

しかし現実は隅っこでロッカーにうずくまるこの光景が私の中学校3年間の集大成だった。

私にとって卒業は門出ではない。釈放だ。
ただの懲役3年がまっとうされただけ。

両親はわからなかっただろう。
どうして私が空気になったのか。
どうして私が誰とも打ち解けることができなかったのか。
どうして私は3年間で嬉しいことが一つもなかったのか。
どうして学力には問題のない私が不合格になったのか。
まったくわからなかっただろう。

両親は認めないだろう。
すべての原因が人間関係にあることを。
その人間関係はすでに小学校から蓄積されたもので、
謎のルールや価値観、ゲーム脳などくだらない蘊蓄で
私が孤立する原因になったことを。

父は私が希望した高校へ受からなかったことを嘆いたのではない。
母は私があの醜態をさらすことになったことを嘆いたのではない。

卒業は誰からも心からは祝われず、
不合格は誰からも慰められることはなく、
両親さえも何か含んだような顔をしていた。


友達もできず、恋人もできず、大切な居場所も一つ失い、
操り人形はボロボロだった。
こうやって私の中学校時代は幕を閉じた。

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