【短編小説】二二九号室
——ヱホバ降臨りて彼人衆の建る邑と塔とを觀たまへり。
ヱホバ言たまひけるは視よ民は一にして皆一の言語を用ふ今旣に此を爲し始めたり然ば凡て其爲んと圖維る事は禁止め得られざるべし。
去來我等降り彼處にて彼等の言語を淆し互に言語を通ずることを得ざらしめんとヱホバ遂に彼等を彼處より全地の表面に散したまひければ彼等邑を建ることを罷たり——
京極は深夜の街を歩いていた。
大半の店の電気は消え、シャッターが閉まっている。
時折、バーやスナックの看板にあかりが灯ってはいるが、その店の中に人がいる気配はない。
京極は電気が消えた店と店の間にある小道、いやこれは道ではなく
ただの店と店の隙間に入り込んだ。
そこには室外機やゴミ箱が雑に設置されている。
両側の店のどちらかが飲食店なのであろう。生ごみの不快な匂いが立ち込めている。どこからか白い湯気が発生しているが、京極にはその発生源はどうでもよかった。タバコに火を付ける。
店と店の隙間の奥からひとりの男が歩いてきて京極のとなりに立った。
「最近かなり動いているみたいだな」
「おかげさまで」
「で、今日はなんだ?何が知りたいんだ?」
「カラオケボックスの殺人事件と高校内でおこった殺人事件」
「どっちも犯人は捕まっただろ。カラオケボックスの方は暴行目的の異常者が暴行しようとしたら騒がれて殺したって話だろ?」
「いつから暴行目的の異常者が拳銃を持つ国になったんだ?相場はナイフとかスタンガンとかその類のモンだろ?」
「高校内での殺人事件は、金貸しの竜のところの若いのが捕まったじゃないか。借金の取り立てに学校まで行って思わずやってしまったって自白してるぞ」
京極はとなりにたった男にタバコを勧めた。
「いいか、マーロウ。どちらの事件も無理があると思わんか?」
マーロウと呼ばれた男はタバコを咥え、京極が差し出すライターの火に顔を近づけた。
「カラオケボックスの店員は被害者は二人で来店したと証言したが揉み消されている。高校内の方は被害者が借金をしていた事実はない、と巷では言われてるな。でもまぁお上がそう言うんだからそうなんじゃないか?
そこを深追いすると危ないんじゃないか?」
「お上ってのは誰のことを言っているんだ?」
「なぁ京極。この二つはまったく別の事件だぞ。単純な異常者の犯罪と若い金貸しがやらかしたってだけだ。この二つに関連性なんてないだろ」
「拳銃」
京極は短く答えた。
マーロウは指でタバコを揺らし灰を落とす。
「どちらも拳銃が使われている。これがまずひとつ。
カラオケボックスで殺された女子高生と同じ高校の教師が、白昼堂々と
学校内で殺されている。これがふたつ。
そして、この街では拳銃を手に入れられるところはただひとつ」
「アオゾラか」
京極は無言でうなづく。
「今や、暴力団ですら自前のルートで拳銃を手に入れることは無理なのだ。
なぜなら他国から拳銃を相場の倍の金額で買い占めているからだ。
必然的に今、この街にある拳銃はほとんどがそこが買って流したものだ」
「アオゾラには関わらない方がいいぞ。おそらくおれらの手にはおえない。
政治家や政府が噛んでいるって話もある」
京極は店と店の隙間から、人が通っている道を見た。
「マーロウ、この街は変わったな」
「アオゾラには手を出すな。おれはおまえが好きだ。昔馴染みももうおまえしかいない。これ以上いなくなってほしくないんだ」
「知ってるか?この街、いやこの国では昔タバコは店の中で吸えたんだ」
「あぁ、知ってるさ。あの事件の前の話だろ?」
「いつのまにかタバコは店じゃ吸えなくなった。しかもタバコを吸う人間を差別する風潮にまでなった。タバコを吸ってると入社できない会社があるって話も聞いた。馬鹿げていると思わないか?」
「京極、アオゾラからは手を引け。昔話やお上の話だったらいつでも聞いてやるから」
京極もマーロウも黙った。
室外機の歪な音だけが隙間に満ちた。生ごみの匂いにはもう慣れていた。
「二つの事件の真犯人は同一人物だ」
京極が口を開く。
「《アオゾラの会》から拳銃を買った、もしくは持たされている者だ」
マーロウは大きなため息をつく。
タバコの煙がそのため息の大きさを物語る。
京極は続けた。
「真犯人は異常者でも金貸しでもない。一般の人間だ。しかもまだ若い」
「どうしてそんなことがわかる?」
「迷いがないからさ。《アオゾラの会》から拳銃を手に入れているとしたら
少なくとも信望者だ。若いやつはそういったものにのめり込みやすい。
信心が深いほど犯行に迷いがない」
「別のやつかもしれないだろ?」
「カラオケボックスも、高校の中でも確実にもう一人いたはずだ。
女子高生のひとりカラオケは珍しくはないが、店員は二人の女子高生を見たと証言した、が、その証言は揉み消された。
高校内での犯行現場は指導室。金貸しが取立てに来てそんなところに通すか?まず学校の外まで連れ出さないか?人目は避けたいはずだ。
それが指導室に通している。説教でもするつもりだったか?」
「いやいや、それは話が飛躍しているぞ。それじゃおまえは犯人は高校生だとでも言うのか?高校生が拳銃を使って、二人を殺したって?」
「二人、ではないかもしれない」
「話にならんな」
「マーロウ。わしを二二九号室に案内してくれないだろうか?」
「それは無理だ。いいか?百歩譲ってこの二つの事件については調べてやるとしよう。だが二二九号室だけはダメだ。みすみすおまえが死ぬようなことはできないに決まっているだろ」
「じゃあわしが個人的に戦うしかないな。わしにはそっちの方が死ぬ確率が高いような気がするのだ。わしももう若いとは言えない歳だ。
相手が若い殺し屋で、バックには《アオゾラの会》がついている。
わし一人では無理なのだ」
「二二九号室に入るってことがどんなことかわかって言ってるんだな」
「もちろん。おまえには迷惑かけないさ」
「条件がある。二二九号室にはおれもいっしょに入る。おまえのいないこの街になんの意味があるんだ。おれもいっしょに入る」
二人はタバコを持っているだけで長い間、口にはつけていなかった。
煙だけが細く宙に舞っていた。
「マーロウ。いつからだろう。おれらの言葉が周りに通じなくなったのは」
「最初からじゃないか?」
「バベルの塔を建てた人間は神様の逆鱗に触れた。神様は人間たちの言葉をバラバラにした。もしかしたらバラバラにしたのは言葉じゃなくて心なんじゃないか?だから人と人は分かり合えないのかもしれない」
「けっこうなことを言うじゃないか。博識だって褒めてほしいのか?」
「世の中に差別ができたのはもしかしたらこの時かもしれない。
富める者は貧しき者から搾取し、美しい者は醜い者を虐げる。
力のある者は弱き者に鞭を打ち、知力のある者は無知な者を騙す。
そして大衆は大きな流れの方へ流れていく。
その流れは低いところを流れていることなんて気が付きもしない」
「京極、おまえ大丈夫か?」
「二二九号室に入るには覚悟がいるんだろう?」
マーロウはまた黙った。
「頼むよ、マーロウ」
京極はタバコを地面に落とし、つま先で捩るように踏んだ。
マーロウは何も言わずタバコを咥えたまま元来た道を、
隙間の奥へと進んだ。
京極は隙間から出て、通りへ戻った。
若い男女の集団とすれ違う。
飲んだ帰りのサラリーマンとすれ違う。
酔っ払ったホストを抱えるキャバ嬢とすれ違う。
すれ違う時、京極の耳には各々の会話が入ってくる。
その会話のほとんどが京極には理解できなかった。
まるでバベルの塔を建てたせいで、言語をバラバラにされた太古の民のようにまったく理解ができない言語だった。
二二九号室。京極はゆっくりと準備を始めるだろう。