原点回帰のきっかけは“わさび”だった。
Look back in anger —2024年を振り返る—
《FIRST VOICE》
WASABI
あの人はわさびを平たいお菓子の上に目一杯ひねり、私に差し出した。
この瞬間に私は自分自身の本質を思い出した。
このわさびがたっぷりと乗ったお菓子を食べることが私の選択すべきことだと思い出したのだ。おそらくこの人以外にこんな仕打ちをされたら手首から先を切り落としていたかもしれない。
物騒な話だが、この頃はそれほど私の心は荒んでいた。
たぶんこれを読んでいる人はなぜわさびで原点回帰なのか、なぜわさびの乗ったお菓子を食べることを選択すべきだったのかまったくわからないと思う。申し訳ないがそこまで懇切丁寧に書き記すことはしない。
私はこのわさびの乗ったお菓子を躊躇うことなく口に放らなければならない。結果として私は清々しい気持ちで、わさび乗せお菓子をちゃんと口へとお迎えした。迷うことはなかった。一瞬にして自分がなんたるかを思い出した。“原点回帰した”と言うと“ふりだしにもどる”のような気がしてなんだか今までのことは一体どうなっているんだ?と言いたくなる人もいるだろう。
しかし今までのそれは私が自ら選んでそうなったわけではなく、
時の経過や私が生きる上で経験することによって変容し続けたゆえの問題である。
年齢や私の身なりなどでいじられることがなくなった。
私もそれを当たり前のように感じそういうことからは卒業した、いや卒業させられたと勝手に思っていた。時と経験による変容である。
その時と経験による変容を一気に深化させることになったのが
わさびの乗った平たいお菓子だったのだ。
原点へ回帰したとは言え、後戻りではない。深まったのだ。
原点とはいつもゼロ地点ではない。
数学上、座標上では(0,0)でしかないこの点もこと人ひとりの人生となれば話は違ってくる。
人の人生においてある地点からの原点回帰は(0,0)に戻ることだけではなく、そのある地点のもっと深層へ潜り込んでいくこともある意味では原点回帰だと思う。
私が今まで経た時間と経験によって変容を続けたこの点は、間違いではない。正しくはないかもしれないし誰からも認められることもなく、
評価も認知も何もない。
そんな不思議で異様な座標の点であっても、その点には深さがある。
まるで海のように。
横に泳ぎ続ければ果てしなく続く。それは縦方向も同じで、より深く潜ろうとすれば人間の限界を超えた深海が存在する。私は海を横断することより、より深く潜ることができることに気がついたのだ。
私の世界にはいつも深海が存在した。
誰も行きたがらない深くて暗く、痛い冷たいが当たり前。
海上に出ればたちまち溶けて消えるか膨らんでパチン。
私はいつもそんな世界にいたのだ。
わさびののった平たいお菓子以外に今まで私がありがたくいただいてきた
“おいしい”ものたち。深海に住む私にはごちそうだった。
花が生けてあるままの花瓶に注がれた焼酎。
グラスの中で配合されこの世のものとは言えない色になったカクテル。
ショットグラスに入ったスピリタスの列。
よういちの姉のビールクッキー。
タバスコが100振り分入ったカップ麺。
マヨネーズをつけた段ボール。
一度ゴミ箱を通過したフランスパン。
ポケットに詰め込んでゴミを含んだ白ごはん。
こんなものはいくらでも口にしてきた。別にいじめられていたわけではない。いや、もしかしたらやっている側はそういう気持ちだったのかもしれない。ダンボールやゴミを通過したパン、ポケットの白ごはんはそうまでしないと飯が食えない状況だったからだ。
いつかこの状況をぜったいおもしろく語れる日が来ると信じてやまなかったし、そうありたいと思っていた。
そうであるためにあるのだ。このわさびの乗った平たいお菓子は。
私はわさびの乗ったお菓子を一口で頬張った。
あの人が差し出した“わさび”は鼻から脳へと刺激を与え、
心にまで浸透した。私を深海まで引き戻した。
精一杯のリアクションを。
からい、いたい。
感じる以上を表現する。
原点回帰のきっかけはあの人が差し出したわさびだった。