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【短編小説】メメント・モリ

 旅人は、この道の先にユートピアがあると信じていた。
しかし歩き疲れてしまってもうユートピアを目指すことはなくなった。
いつも同じアオゾラを見上げて過ごす日々は悪くはなかった。
同じ顔ぶれと暮らすことも悪くはなかった。
昨日と同じ場所で、昨日と同じものを食べることにも慣れた。

「ユートピアなんて最初からなかったんだよ」
巷の人々は旅人、いや元旅人に言う。
「変な噂に絆されたんだなぁ」
巷の人々は優しさと冗談でもって元旅人に接する。
「ここにずっと居ていいんだぞ」
その笑顔はどこか信用ならないものであった。

 そうこうしているうちに数年が経った。元旅人は、もう旅人ではなくなった。ただの住民となって生活を謳歌していた。

そこに一人の旅人がやってきた。
その旅人は、元旅人だったただの住民と
以前どこかで会ったことがあると言った。
「僕は君を覚えているぞ。もう旅は辞めたのかい?」
「あぁ。ユートピアなんてどこにもないんだ。そんなものは最初から存在しなかったんだ。君も諦めてここに一緒に住まないか?」

旅人は苦笑いして答える。
「いや、遠慮しておくよ」
「どうしてだい?このご時世じゃ旅もつらいだろう。私は行き倒れているところをここの住民に助けられて生きながらえている。ひとところに住むことがこんなにすばらしいことだとは思わなかったよ」

「君はつらいことがないと思ったから旅をしていたの?
僕は旅がつらいことは知っている。食うに困ったり雨風にさらされることを承知しているんだ。君は旅というものが理不尽なことやつらいことばかりだと知らずに旅をしていたのかい?」

 元旅人の住民は旅を始めた時のことを思い出していた。

金が底をつき、道や森に生えている植物を集めたこともあった。
土砂降りの雨の中を、ひらすら歩き続けたこともあった。
燦々と照りつける太陽に意識を持っていかれそうになったこともあった。

しかしその後には必ず、笑顔をもたらした。
植物の中には、おいしく食べられるものが存在すること。
土砂降りの中を歩き続けた先に見たものは大きな大きな虹だった。
燦々と照りつける太陽は、豊作をもたらしそのおこぼれを旅人に与えた。

「君、旅はいつでも辞められる。君の言う通りひとところに住むこともすばらしく美しい。しかしそうではない美しさもあるってことを忘れてしまったのかい?以前会った君は本当に楽しそうに旅をしていたよ」

「僕は死にかけたんだ。もうあと数時間、いや数十分遅ければ僕はもうこの世にはいなかった。そんな旅がもう嫌になったんだ」

「そうか。なら仕方がない。ここに住み続けることもとてもすばらしいことだ。周りの人は優しく朗らかだ。生涯を過ごすのにもってこいの土地だ」
そう言うと、旅人はせっせと旅支度を始めた。
修理に出していたランプを引き取り、少しのお金を払って洗濯してもらった衣類と市場で買い込んだ食料をカバンに詰めた。

「やっぱり君は行くのかい?」
「当たり前さ。この先に目指すべき場所があるんだ」
「ユートピアは存在しないんだぞ。それでも君は歩みを止めないのか?」

「ユートピアはちゃんと存在するよ」
「それは間違いだ。ユートピアは存在しない」

「存在するさ。ユートピアっていうのはね《どこにもない場所》って意味なんだ。でも裏を返せば、どこだってユートピアになるってことなんだ。
どこにもないけど、どんな場所でもそうなり得る。自分が過ごしやすかったり生きやすいと思えばそこがユートピアってことなんだ。
ユートピアっていうのは場所や地名じゃなくて気持ちの名前さ」

旅人はくたびれた帽子を被った。
カバンを右手に持ち来た時より幾分、小綺麗になった気がする。

「そうか!僕は知らず知らずのうちにユートピアに到着していたんだ!」
元旅人だった住民はここ数年で一番の笑顔になった。
そうかそうかと何度も言いながらうなづいた。

「君が、そう思うのならよかった」
旅支度を整えた旅人は、悲しそうな目をした。

「君は君のユートピアを見つける旅をしているんだね。大変だろうけどがんばるんだよ」

「僕はユートピアなんて探していないよ」
元旅人だった住民は、街の出口へと歩く旅人を追いかける。
「え?じゃな何を探してるんだい?何かを、どこかを探しているんじゃないのかい?」

「探してはいない。場所はわかっているからね。ただそこにたどり着くには長く苦しい日々に耐えなければならないんだ」

「君が行きたい場所ってどこなんだい?」

「アルカディアだよ」

旅人は街の出口から、颯爽と去っていった。
後ろ姿を見ていたら、この旅人に会ったときのことを思い出せた。

街の出口に呆然と立ちすくみ、歩いていく旅人が小さくなってもずっと見ていた。この街の出口から続くこの先のストーリー。
旅人が言った長く苦しい日々が待っているストーリー。
それでも歩みを止めない旅人を見ながら、何かを失ってしまったのかもしれないと元旅人は少し悲しくなった。

「おーい。そんなところで何をしているんだい?もうすぐ夜になるぞ。今日は婆さんがスープを拵えてくれた。みんなでご馳走になろう」

住民たちが遠くから笑顔で手を振っている。
ユートピアに住む人々が笑顔で手を振っている。
ここは僕のユートピアだ、と元旅人は嬉しくなった。
笑顔の住民たちに答えるべく、元旅人だった住民も精一杯の笑顔で答えた。

街を出た旅人は、歩き続けていた。
さきほど出た街がまったく見えない距離、夜も更けたがあの街の灯りさえ届かない距離に差し掛かり始めて後ろを振り返った。

「かわいそうに」
旅人はそう呟いた。
道の脇にある大きな木にカバンを置き、水筒の水を飲んだ。
水筒を片手に街のある方角を見た。

ユートピアという理想郷があるというのは、夢敗れて散っていった
旅人が他の旅人への嫌がらせで作ったホラ話なのだ。
あの街自体が、夢破れた旅人の集合悪なのだ。

そもそもユートピアとは理想郷ではないのだ。
彼がもしあの街をユートピアだと思うのであれば、もう彼は一生あの街を出ることはできない。あの暮らしを捨てることはできないだろう。
彼は自由をひとつ失ったと言える。
そしてこれから、もっといろんなものを失うだろう。
あの街を成しているものは《みんな》だ。
《みんな》が良しとすればどんなことでも良しとなる。
あの気持ちの悪い笑顔で人さえも簡単に殺すだろう。

徹底的に同質の価値観を強いられ、徹底的に管理される。
それがユートピアの正体だ。旅人は、あの元旅人が不憫でならなかった。
大きなため息をついて、水筒の蓋をしめた。

この旅人は、アルカディアを目指している。
簡単に辿り着ける場所ではない。長く苦しい日々を超えた先にある場所。
雨も風も、太陽の光でさえも味方ではない。唯一の味方は、夜の静寂と満点の星空だ。夜に隠れて回復し、またつらく苦しい日々に耐える。
それの繰り返しの最後にたどり着く場所、それがアルカディアだ。

旅人はまたカバンを右手に持ち歩き出した。

アルカディアへの合言葉は、メメント・モリ。
《人に訪れる死を忘ることなかれ》
肉体的な死だけではく、精神的な意味の死も忘れてはいけない。

「ユートピアは人をも殺す、か」

旅人は少し歩幅を大きくした。
軽快に、そしてリズミカルに。




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