「〜してみ」の『行動促し』ではなさそうな使い方
ことばを研究するなら、やっぱり日常的にことばに触れて、それについて考える時間をとるというのが大事だし、そういう態度を持っていたいと思ったので、日常言語プロジェクトを再開㊗️
今回は「~してみ」について。
単純に思いつく用例は
(1) 貸してみ
(2) 見せてみ
のあたり。「~してごらん」的なニュアンスで使われるのがおそらく一般的。
そういえばあんまり県外で聞かない気もするけど、「~してみなさい」のカジュアル版か、方言だろうか(と、思ったら、他にもそうやって考える人は多いようで、ネットで検索かけるといろんな地域の人が相談しては、いろんな地域の人からどこどこでも言いますよと返答されているので、おそらく全国的に使うのだろう)。
さて、先週末は富士登山のために静岡県に帰省していました。
家族と話していて、私が自虐的な笑い話をしていた(たぶん)時に、
(3) それでXXしてみィ、XX(だ)から
のような言い方をして(たぶん)、ふと、あれ?と思ったのだった。
というのも、(3)のあとって聞き手からの笑いをexpectする感があるし、(1-2)みたいに聞き手に何らかの行動を要求・提案したりするようなものでもないような気がする。
むしろ、聞き手に「XXしてみ」の内容を思い起こさせて、その後ろの「XXだから」でその結果どうなるかというオチみたいな構造を感じる。
もちろん、(1-2)の後に「XXだから」を(文意がおかしくならないように)つけても、(3)のようなニュアンスにはならない気がする。
(1)’ 貸してみ。私がやってあげるから。
(2)’ 見せてみ。直せるかもしれないから。
そうすると、「XXしてみ」について、その形式と意味が必ずしも一対ではない(?)ような印象を受ける。
そういうわけで、私の少ない引き出し(知識)を漁って、これについて考えてみようと思う。
---------------------------------(翌日)---------------------------------
全然どんな言語学的知識で紐解けるのかわからず、もっと用例が必要かもしれない、ということで、私が睨んでいる「笑い」や「ウケ」のあたりと関連しそうな、落語の世界を覗き見してみることにした。
たぶん「〜してみ」という言い方よりも、「〜してごらんなさい」の方が言いそうだなという直感から、『落語 〜してごらんなさいよ』で検索。
さらに『落語 ごらんなさい』で検索。
でも、この落語の世界でも「〜してごらん」は行動促しでも使われているようだ。
『読ましてやろうか。ありがたく押しいただいて読んでごらん。』とか、『読んでごらんよ。{無理に押し付けるように差し出す}』(http://ensou-dakudaku.net/znshu/kyogen.htm)、あるいは『いいじゃありませんか、あぁ~たなんざ、容子がいいんだから船頭のなりをしてこぉ櫓につかまってごらんなさい、両河岸は女の子でいっぱいになっちゃうよ、ホントに憎いねぇどぉも、ちくしょ~め。』(http://kamigata.fan.coocan.jp/kamigata/rakug369.htm)などなど。
または、『あっ!、御同役、御同役、ごらんなさい、こいつ不思議だね、目が二つある』(http://sakamitisanpo.g.dgdg.jp/itigannkoku.html)なんかも引っかかる。
『「あの人は士族だったそうで、丁寧に物を言わなければ返事をしません。もう一度行ってごらんなさい」と言う。』(https://plaza.rakuten.co.jp/meisakurakugo/diary/202302010000/)も同様に行動促し的である。実際この例に関していえば、後続する『そこで、手を付いて、
「何とぞ、その品を売って下され。お値段はいかほどでございましょうや」
「そう言えば、ただでやってもいい」』を読めばわかるように、ほんとに促されているではないか(!)。
ここまで色々みてみて、そもそもやっぱり違う使い方だよな!とはなった。でも、よく考えたら私、辞書がなんて言っているかについて、すっかり目を通すのを忘れていた。それで調べてみたら、あれ、今まで私が紐解こうとしていたものは、一体何だったのか、わからなくなってしまった😂
なぁんだ、もう用法としてしっかり別枠になっていたヨ。やれやれだヨ。
でも、もっと「笑い」を期待するような文脈で使われる(3)みたいなものについて、そっちの観点から紐解けるようになりたいなぁ。
何となく、3の用法の「…した場合には」の意で使われる時の後続する部分がボケとか人を笑わす要素なんだろうと思うけど、そうすると単に、笑いというのがどんなふうに言語学の分野で議論されているのかが気になってくるよね。
ちょっと前まで読んでいて途中で挫折した谷泰(編)(1997)「コミュニケーションの自然誌」に、谷泰『だれそれはかくかくしかじかを知らない』という論文があって、その5節のあたりに笑いに関する事例の議論があったと思う。
一回読んだけど、その前までもとーても難しいのよね。
なのでまた明日以降の自分に託すことにしたい(えっ)
-------------------------------(さらに翌日)-------------------------------
「明日の自分」の番になってしまった。
そもそもこの論文がどんな話・主張なのかを概略的にまとめておく。
リーディングノート(読みながら自分のことばでまとめていく作業中のノート)をもとにするので、まるっきり本文から持ってきていないはず…!だけど、でもやっぱり無断引用していないか心配だ!
コミュニケーションがうまくいくということは、意図した情報が誤解なしに伝達されるということで、そのためには、メッセージの送り手・受け手の間で、それぞれが参照する知識の共有が保証されている必要があるということである。この考えは、「意図」を前提にしている。
でも実際には、その相互性は一般的に定立することができないという反例が(物理的共在や言語的共在は抜きにして)立証されていて、この伝達理論にみる「意図」の前提は懐疑的なものである。
基本的に、想定知識が相互に不均衡になるという事態は、いく層にもわたって発生しうるのだが、そうはいっても、コミュニケーションはあら不思議、うまく成立しているのだ。
そこで、想定知識が相互に不均衡でもコミュニケーションがうまく成立するのはなぜ?というのが課題。
これについて考えられるのは、(1)たまたま想定知識が一致している、(2)推論による、(3)会話調整による、くらいだ。
(3)に関していえば、ではそれ(=会話調整)を講ずる必要性は、①どのような認知経験のもとで感知されるのか?そして、②どのような推論と関与態度のもとで、その方略は選び出されるのか?という疑問が湧いてくる。
①について考えるために、会話調整という予防方略を取りうる条件がいかに成立するかを考えよう。
予防方略というのは、相手が知らない場合に備えて、相手に質問して情報を請求するーー「情報請求」と、自分から言ってしまえ!ーー「情報提供」のことである。
この二つには基本的な差異があり、前者は「相手は知っているけど私は知らない」内容を求めるのに対し、後者は「相手が知っているかどうかわからんなぁ」な内容を開陳する。
どちらも自己の無知(前者であれば相手が知っていることを私は知らないし、後者であれば私が知っていることを相手が知っているかどうか私は知らない)を自覚することになる。
それにしても、この二つの差異が生じてしまうのはなぜなのか(ね、この辺りから、Aを解くためにBが必要だけどBのためにCが必要・・・の無限ループを感じるよね、自分迷子になりやすいから本当苦しかった)。
コミュニケーション参与者の認知経験の差異背景を検討すれば、「自他の知識状態」についての知識が、人によって内容も違えば、知る必要性を知覚するタイミングも違うことは明らか。
だから他者の認知環境で想定されていない知識がいかに発話を手がかりに他者に知られることになるかというのが大事なんだ、ということ。
そうすると、「意図」って伝統的に考えられてきた「相手の意図を自分側で修復する」「自分の意図を相手が修復する」ではなくて、もっとフラットで、本来他者に知られることのない認知上の過程なのではないか、ということを主張したい!なんだそうな。
こっからちょっと難しかったんだけど、p.115あたりになると、
会話のやりとりを通じてその発話事実から関連性推論した結果獲得する情報は、「わたし」のそれまでの先行想定群の否定(=異化)という形で立ち現れることになるようだ。
だからこそ、欺瞞でない限り人は知識を公示するのが普通で、そうでない場合に、「笑い」が見られるというのだ。
つまり、笑いは想定上の異化の経験事実をその時点で公示する自己言及行為であり、前言語的調整方略としての機能を持つ、という(ここらへん、よくわからん!)
ここまでが笑いの事例に入る前の内容かなぁ。
事例は3つあって、2つ目は「なおす」の解釈違い、3つ目は言いながら笑ってしまう例。たぶん1つ目が「〜してみ」の笑いに近いような気がするので、それをまずまとめてみたい。
この例は、一旦そのまま引用してみよう。
この事例では、参与者みんな、Bが老眼のせいで落ちてくる球を空振りして悔しい思いをしているのを目撃している。
B4の段階でBはまだ、単なる老眼の話かと思っていたが、A5の発話を受けて、なぜそんな架空の老眼鏡の話になるのか、勧めてくる理由がわからない。
Bには「勧めるだけの正当な根拠が存在するだろう」という想定がなされている(そしてそれはB6で表明されている)が、
A7によって関連性のある先行事実記憶(老眼で空振り)が想起させられて、その時点でBは、A3の時点からAがA7によってそのこと(↑)に納得するだろうと思っていたという、意図の隠蔽に気づくことになる。
ここがまさに、異化を経験した部分となる。
なるほどなんか、そうじゃなくてね?!という異化なのかも。
例を考えてみよう。
(1)' 貸してみ、私がやってあげる(=直してあげる)から
は普通だけど、
(1)" 貸してみ、ぶっ壊してやるから
とかってなったら、確かに「いや、あなたがやってくれる(=直してくれる)んじゃなくてか?!」的な異化が起こって、笑ってしまいそう。
(実際には、言う前からあなたやる気なかったのねの異化?)
(2)' 見せてみ、直せるかもしれないから
は、単に「はい」と手渡しそうだけど、
(2)" 見せてみ、たぶん何も変わらないから
だと、「いや、変わらないんかい!」(私のイメージ、「あなたもfigure outできないんかい!」「じゃあなんであなたに見せるん」)という異化による笑いが起きそう。
(こちらも細かくいえば、見せてみと言う前から解決する気なんてさらさらなかったのだということに気づく(=異化の経験)?)
たぶんこの種のやつは、一連の会話が終わって、あるいはその日布団に入って会話を思い出す時に、言った自分でさえ笑えてしまいそうである。
ずっとこの論文が難しくて、fully理解できなかった感覚があったけど、それよりもマシになったぞ!すごい!
異化の話、面白いねー。