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オッペンハイマー、または国家に利用された科学者

まあ、しっかりと描いているのかな、と思う。政治に利用され翻弄される科学者たちを。

科学者というものは、科学それ自体の進歩のために実験を推進したい、つまり、自分たちの仮説が正しいかどうかに関する「真実(それを真実と呼ぶなら)」を追求したくなる性分だと思うが、その科学者の性と、戦争の相手国=「悪」を打ち負かすことができるかもしれないという幻想(これも、その実態は、ただ国家、政治家、軍事産業などの思惑に巻き込まれた国民の感情でしかない。なぜなら、戦争をする国のどちらかが「悪」で、どちらかが「善」なことなどないからだ)を、国家が利用した悲劇が、原爆の誕生とその使用だった。

そして、科学者であるオッペンハイマーが純朴にも愚かにも、この兵器が世界のすべての戦争を終わらせるのだと信じていたとは、本当に信じがたい。彼の同僚が将来の敵国となるソビエトはより強力な兵器を生み出すだろうと警告したように、人間の性とは、プログレッシヴ=進歩的、つまり常に進歩したい、新しいものを発見・発明したいという前方向にしか進まず、決して停止もしなければ後戻りもしない。そして存在する道具は、やはり使いたくなるし、何かのきっかけで使ってしまう時がおそらく来るのだから、現在の核保有国の「抑止力としての核兵器」という言い分は、ただの言い訳であり、世界は人類の存続を真剣に考えるなら、即刻、核兵器を「いち、にの、さん」で廃絶しなければならない。それでなくとも、人類の活動による地球沸騰化問題、それに基づく異常気象や食糧問題など、問題は山積しているのだから。現在の科学者の使命の一つは、核兵器(や核燃料)を安全に廃棄する技術を生み出すことである。人間が核兵器や燃料を作ってしまったのだから、人間がその後始末もしなければならず、政治家、国家が本当に未来を考えているなら、地球レベルでこの問題に取り組まないといけない。

しかし、この映画では、科学者の奮闘、その能力の国家による利用、その末にいったい何という恐ろしい道具を造ってしまったのか、という科学者たちの個人レベルでの道徳的葛藤がどちらかというと丁寧に淡々と描かれているが、ただそれが原爆の被害者目線で描かれていないという理由で、去年の夏公開だと終戦記念日にかぶって日本人感情を損なうと忖度したのか、またはコケると思ったのか、とにかくアカデミー賞受賞後まで、何ヶ月も、世界の第一線で活躍する映画監督による映画の公開を延長する日本という国の歪んだ集団的サイキは、やはり「被爆国」という被害者意識からまだ抜け出せていないことを証明している。もちろん、それは抜け出すとか打ち勝つとかいう問題ではないのだろうが、奇妙な忖度をする意味はまったくないし、ただ公開の大幅な遅れが日本人の被害者意識を際立たせるだけになってしまったのは残念だ。この映画の切り口は原爆の結果を被害者目線で描くことではなく、原子爆弾という恐ろしい発明品がこの世に存在することになった経緯とそこに関わった人間に関する映画だからだ。そして、映画というものは、製作者が自由にテーマを選んで表現すればいいわけで、それがいいか悪いか、好きか嫌いかは、観客一人一人がこれまた自由に受け取ればいいのだ。

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