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動物園の哀しみ
夏。
暇にまかせて、人間ではないものと接触したくなって、動物園にいってみたり、水族館にいってみたり。
動物園の何が好きなのだろう?いや、好きではない。
ひどい悪臭だった。動物はおりの中で暑さにまいって寝ているか、餌を求めて客に寄ってきては餌がなくなると無関心になったりした。
動物園は悲しい。自由であるべき、生き物として平等であるべき動物が人間のエゴのためにおりに入れられ、鑑賞されている。水族館は、魚はまだ遠い存在なので許せる。それも人間にしかできない考え方だろう。哺乳類で自分達に近いほど、感情移入もしやすくなるというものだ。
あの動物園の悪臭は、あるべきものがあるべき姿でないひずみのようなものから発生する悪臭だ。自然の中に、あのような人工的に排泄物や熱が循環しない場所があるだろうか?自然にあのような悪臭は存在しない。人間が手入れをしたり、掃除をしたりするか否かや、その程度の問題ではなく、人間が動物園というものを発明し、奇妙な生き物を見てみたいというエゴを満たし、何千年もそれが成り立っている、その発明と存続自体が私たちの種の思い上がりを象徴しているのだ。
しかし、そこにつれてこられる子供は無心に驚き、喜ぶ。ゾウの圧倒的な大きさに。キリンの首や足の長さに。トラやライオンの毛皮の模様や鋭い牙に。そこに自分たちとはまったく別の形状をした大きな動物が、くたびれた様子とはいえ、動いたりあくびをしたりしているのは、この世界に生まれてまだ間もない人間の子供たちには、いったいどれだけの驚きだろうか?それはペットの犬や猫や、日常的にみかけるカラスやスズメとは違う。
「ここにあるべきでないものがある」から驚くのだ。人の驚きのために、一定数の動物はその種が生まれてきて死んでいくべき本来の住環境とは違う環境で生きることを強いられている。
野生の中で自由に食い食われ、繁殖し、命をまっとうするはずだった、しかし、運が悪かったゆえに、人間が作り上げた幻想の檻の中に囚われた生き物たち。中には動物園で生まれ育って、檻と飼育員と少数の仲間しかしらない動物もいる。彼らは野生に放たれても生き延びていけないかもしれない。でもそんな心配もまったく無用だ。彼らは一生を檻の中で過ごすに違いないからだ。
動物園の哀しみとは、川や海ではとうとうと流れている水が、瓶に入れられ動きが止まると澱んでいくような、本来あるべき姿を止められてしまった生き物たちの哀しみである。