ばあちゃんの愛はトマトの形だった

わたしには、99歳のひいおばあちゃんがいた。

ばあちゃんはいつもにこにこしていて、
「仏のような」という言葉が実に似合う女性だった。



じじばばのおうちの1階がばあちゃんの部屋で、
毎週遊びに行くたび、真っ先にばあちゃんのところへ挨拶に行った。

わたしが顔を出すと、ばあちゃんはよくお菓子をくれた。
甘くてかたい、おせんべい。
通っているお寺で貰うものだそうだ。
わたしはそのおせんべいが大好きだった。

そんなばあちゃんの部屋が第2のリビングになったのは、
私が小学生を終える頃だったと思う。

ばあちゃんは年末に国から100歳の賞状を受け取っていて、
いざ!大台の100歳へ!
と、思ったがしかし、ばあちゃんは3月生まれだった。
誕生日を待たずしてあの世へいってしまったのだ。
100歳という大台目前でこの世を去ったことに、
わたしはばあちゃんの謙虚さのようなものを感じた。

お通夜では、ばあちゃんが通ったお寺のお坊さんが来てくれた。
ちらっと見えるお坊さんの目元が悲しそうだったのを覚えている。

そのお坊さんは法話の際、こんなことを言っていた。

「おばあさまはいつお会いしても、
太陽のような温かい笑顔を絶やさない方でございました」

ばあちゃんはお寺に熱心に通い、
お寺のお坊さん方や他の信仰者の方と仲良くしていたこと。

優しくて穏やかなばあちゃんは、
いつも感謝の気持ちを忘れず、周りの人を愛し、
そして周りの人達からとても愛されていたこと。

夏になると、瑞々しいトマトを買ってきて、
お坊さんたちに「いつもありがとうね」とお裾分けをしていたこと。

そんな話をしてくれた。
どの話も、しっかりとばあちゃんの姿が目に浮かぶ。

お坊さんはばあちゃんにこちらこそありがとう、と告げていた。

トマトの花言葉は
「感謝」
だそうだ。
真っ赤な果実と、感謝。何だかわかる気がする。

そういえばじじの家に行くと
夏はやたらと立派な、おいしいトマトが並んでいた。

そうかあれは、ばあちゃんからの愛だったのか。

優しい形をした、真っ赤な愛。

ばあちゃんみたいな素敵な女性になるために
わたしは今日も、カゴにトマトを入れた。

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