大きな木
園庭にも大きな木があった。それは自分達を見守っているかのようでもあり、同時に登っておいでと挑戦を促している堂々とした存在だった。
一本だけで立っている大木を見ると思い出す。葉が沢山茂り、幹も太くてどっしりと、安定感があった。こんな風に運動場の片隅で待っている。
中途で入園して初めの頃は、木登りなんてしたことがなくて、考えつきもしなかった。同級生はするすると登っていくのだけれど……。そして、え、できないの、と言って煽るのだ。
誰もいない時、木の幹を撫でた。ごわごわした皮がちょっと怖い。手を擦りむくとかそんなことはなくて、単に言い訳にしているだけだ。
しがみついてはみたものの、それだけだったり。少しだけしか、上に進めない。それでいいと諦めながら、どこか嫌で、遥か高い枝を見つめてはぼうっとしていた。
時が経っていくのを理解できていなかったけれど、もう少しで卒園となる二月の末。外は暖かく、隅にぼんやりと立ち、前と変わらず大樹と園庭で遊ぶみんなを交互に眺めていた。
ふと……、登れないままで良いのかと思った。別れまでの、残り僅かな時間。冬の間に竹馬には乗れるようになった。他の苦手なことも、段々できるようになって、少し、自信がついていた。
勿論、先生に言われた通り、ズボンを穿いている。
今なら。
思い立ったからには、木の幹に飛びついた。いつもなら、そのままずりずりと下がって尻から落ちるのだが。しっかりと、掴んだ。
そして、足で踏ん張って、手はそれに応じて少し上を押さえ。徐々に、体の位置が上昇していく。
気持ちが良い。それに任せてぐっぐっと進む。時折、下をちらちらと見れば、確かに高い。今までで一番。得意になり、周囲に人がいないのが逆に余計にそれを増長した。
力をかけ、枝を掴んでまたがった。多分、見上げていた枝だ。太さがあり、いつか他の子がそこに立っていたのも見た。
自分も同じようにしてみようかと考えて、その前にくるっと首を動かして斜め後方を見た。三つ編みがさらさらと背中を撫でる。そちらには外との境であるフェンスがあり、プールやら、瓦屋根の民家やらが見えるはずだった。
ところが、予想していたのと違う光景が目に入った。何が違うのか、違和感はあるが理由が分からない。
きっと高い所にいるせいだ。そう考えて、首を元に戻した。
「あっ」
木の下には、お正月休みが明けてから仲良くなった、あやのちゃんがいた。目を丸くして驚いているみたい。
「おーい」
と、手を振ったら、あやのちゃんはにこにこと笑った。
「そんなところまで登ったの?」
木登りが苦手な自分が、こんな高くまで行けるなんて思ってもみなかったのだろうと思うと、胸を張りたくなった。
「そうだよー」
大きな声で返した。更に良いところを見せようとして、恐る恐る、枝の上で立ってみようとしたが、
「降りてこられるの?」
と、あやのちゃんが言ったのでふと我に返った。
「あっ」
ここは、とても高いのだということに改めて気付く。けれども、
「大丈夫、降りられるよ」
最後にちょっと腰を浮かせて、ぎゅっと幹と枝を握り締め、心持ちその場で立ってみせて、自分もあやのちゃんに笑いかけた。
実際は、こわいという感情が復活しかけていたが、何事もないような顔をして、するすると滑るように降りた。
もう少し長くいれば良かったか。またとない時間だったのだから。とも思ったのだが、あやのちゃんとブランコで遊びたい。
登れたという事実には、証人ができたから良い。
それに、もう、どちらでも良い気がした。
景色が違う気がしたことも、半歩踏み出す頃には忘れていた。
遠く離れて、何年も経った。だから、卒園前の木登りのことそのものも、記憶からなくなっていると思っていた。それが、こうして蘇るとは。
この木は、あの時の大木ではない。分かっているけれど、向こう側に目を向けた。
違和感の理由が分かった。市内唯一の総合病院は四階建てで、それより高い建物はあの町には無かったはずなのだ。しかし、木の上から見た景色はそうではなかった。そう、ちょうどこの辺りのように、五階建て以上のマンションやビルなどが色々と。民家の外観も新しかった。
でも、その同一性を確かめる術もない。
木の葉が揺れ、がさごそと音を立てた。風はない。頭上の枝がたわんでいた。そこに誰かがいたようで、いないようで。