「ソラリス」を読んで考えてたこと〜神強制と神奉仕の循環〜

データの整理していたら2年前「ソラリス」を取り扱ったときの文が出てきたのでちょっとアップします


 「海」や「宇宙」「大地」、それらはしばしば神に例えられる。人間にコントロールできない強大なもの、広大なものは信仰の対象となりうる。
 この場合の「神」とは一体何か。それを考えるために、マックス・ヴェーバーの議論を引き、考えてみたい。ヴェーバーは信仰の形態は呪術から宗教へ発展していくと考える。この二つはどちらも神と呼ばれる、人類を超越した存在、人間の行動を規定する存在が登場するという点では似たもの同士である。しかし大きく異なる点は前者が「神強制」、後者が「神奉仕」を前提に成立しているということである。
 「神強制」というのは、信仰する人間が、専門家(呪術師)の使役によって利益を強制するというもので、そうではなく信仰する人間が神に完全に服従する形が「神奉仕」である。そして、ヴェーバーはこの「神奉仕」こそが、資本主義をはじめとする「合理的な」社会を作り上げたと主張する。
 「神強制」の信仰では、人間の行動を規定するはずの神が、強制によって人間に規定されているという自己循環を起こしていて、神の超越性をあやふやなものにしている。これが「神強制」に内在するパラドックスである。
 それに対し「神奉仕」は、そういった曖昧さを廃し、徹底的に全知全能かつ独立した存在として神を捉える。ヴェーバーの代表作である「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」は、贖宥状を「神強制」の残滓であるとの批判から成立し、「神奉仕」を徹底するプロテスタントの理念こそが資本主義とマッチしていたという内容の論文である。この論文をはじめとしてヴェーバーは様々な宗教を比較し、資本主義と宗教の関係を探った。
 今回検討したいのは「神強制」「神奉仕」という概念が、果たして一方的に、直線的に発展していくものなのか、ということである。そこで、冒頭に挙げた存在たちが神であるとき、「神強制」「神奉仕」どちらの関係を人間と持つのかを考える。
 「海」「宇宙」「大地」、これらは確かに人間にコントロールできる存在ではなかった。しかし人間は、呪術的な方法でこれらをコントロールしようとした。実際にコントロールできていたかは関係なく、そうしようと試みる時点で「神強制」の志向をもっていたといえる。ここまではヴェーバーの議論である。しかしながら、それ以前はどうだろうか。例えば「2002年宇宙の旅」冒頭の猿人たちに、神に対して強制するという発想があったのだろうか。その時点ではおそらく、それらは全くもって不可侵で、絶対的なものであり、自らの存在は従属的なものである。自然信仰は全くもって「神強制」的なものであり、その矛盾を解消するために「神奉仕」が生まれたというのは全くその通りだが、「神強制」以前には「神奉仕」が存在したのではないだろうか。「神強制」以前には「神奉仕」があることを考えると、「神奉仕」の後には「神強制」が続くのではないだろうか。
 実際に我々は人新世と呼ばれる時代を生きている。地球の存在は人間の行動を規定していると同時に、人間も地球の状態を規定する時代になった。その中で「母なる大地」「母なる海」という言葉を使うこと、ここには「神強制」と同じパラドックスが起きている。
 あるいは、資本主義がマルクスかの指摘した通り自己を喪失する過程であるとする。共産主義は資本主義を、人類の行動を規定する存在、つまり言い換えるとこれもある種の「神」であると定義し、資本主義は打倒(≒コントロール)可能なものであるということを訴えた。このことは、その時代を「神奉仕」の時代だと定義した上で「神強制」の時代を目指すということであると考えられる。しかしながら、マークフィッシャーの「資本主義リアリズム」に書かれたように、資本主義は失敗し、そこから逃れることはできないという失望が世界を覆った。さらにここから発展して、資本主義のプロセスを加速し、人智を超えた存在の到来を目指す「加速主義」が提唱される。これはまさに、「神強制」の矛盾を解消するために「神奉仕」的な信仰を求めているといえる。
 そうした「神強制」「神奉仕」のせめぎ合いが、様々な要素の中に起きていて、その総体を世界とするならば、それは必ずコントロール不可能なものになる。全体の中でコントロール、あるいは理解できる部分が存在していても、そうでない部分がある限り全体をコントロールできるとは言えない。ソラリスは「理解可能/不可能がせめぎ合う状態」を「理解不能」と置くことを前提として描かれていたように思える。レムがソラリスを「理解不能な存在」として描くとき、ラブクラフトのように根源的理解不能さを描くのではなく、ソラリスに向かい合う人間に、当人の記憶や認識をもとにした幻影を見させたことからは、「宇宙戦争」が人間の延長線上にある外的存在を描いたことに対する単純な反発から一歩引いた、「神」を”前提とする”世界に対する視点を感じさせる。

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