『黑世界‐雨下の章‐』を観劇して未だ観ぬ『雪月花』を夢想する
配信にて『黑世界~リリーの永遠記憶探訪記、或いは、終わりなき繭期にまつわる寥々たる考察について~』の【雨下の章】を観劇した。
このご時世、なかなか公演自体を行うのも大変ななかで『TRUMP』シリーズという長く続く物語の一端を「朗読劇」という形で具現化するというのは、末満さんの思考回路の柔軟性とチャレンジ精神の賜物なのだろうか。いや、もしかしたら単純に「負けず嫌い」というか「いい意味で諦めが悪い」だけなのかもしれない。
とにかく予定されていたミュージカル『キルバーン』が延期となり、代わりに朗読劇『黑世界』が発表された。主演は鞘師里保。ということは、自ずと『LILIUM』の続編的な立ち位置であることは、かつて繭期だった者たちには言わずとも脳髄に直接伝わる。
【日和の章】【雨下の章】と分けられた2部構成の『黑世界』は、図らずも不老不死となってしまったリリーの終わることのない放浪の旅の物語。おそらく両方を観ることで全てが補完されて全体が見えてくるのだろうが、まずは【雨下の章】から配信観劇をした。
「チェリー」に想いを馳せて
全6話から構成される【雨下の章】は、その名の通り雨の降り続く世界だった。雨は自然と僕たちをあの永遠の繭期へと誘う舞台装置だ。
①イデアの闖入者[作・末満健一]
②ついでいくもの、こえていくこと[作・宮沢龍生]
③求めろ捧げろ待っていろ[作・中屋敷法仁]
④少女を映す鏡[作・末満健一]
⑤馬車の日[作・降田天]
⑥枯れゆくウル[作・末満健一]
1話「イデアの闖入者」で、長く放浪の旅をしているリリーには幻覚(新良エツ子)が見えているのが分かる。かつて過ごしたクランには沢山の繭期の少女たちがいた。マーガレットやマリーゴールド、シルベチカ、そして掛けがえのない親友だったスノウ、沢山の友人に囲まれていた。リリーは口うるさく世話を焼こうとする幻覚が「チェリーのようだ」と告げる。
名前のなかった幻覚は、それ以来「チェリー」と自らを名乗るようになった。頼りなく心細いリリーが幻覚に「チェリー」と名付けるくだりは『LILIUM』観劇者からしたら、もうそれだけで泣けてくる。『LILIUM』でチェリーを演じたモーニング娘。の石田亜佑美はこれをどう捉えるだろう。彼女も近年は舞台への愛に芽生えつつある。自分のバースデーイベントで一人芝居をしたり、ソロパフォーマンスの折にミュージカル調なセリフを加えることをしたりしている。舞台女優・石田亜佑美を密かに待望している人は多い気がする。もしかしたら末満さんもまた、その一人だったりして。「チェリー」を登場させることが、石田さんへの末満さんからのラブコールだったりして。
なんてことを思ったりもした。
松岡充という説得力の権化
そこに現れる謎の闖入者シュカ(松岡充)。彼もまた自らを「傍観者」と揶揄してリリーの旅を見守ることを告げる。
『黑世界』は朗読劇と題されている。そして舞台上はソーシャルディスタンスを保ちながら上演されると言われていた。「朗読劇」といえば普通、座ってのリーディングかスタンドマイクを使って等間隔に演者が立って行われる。『黑世界』もそういう感じとばかり思っていたのだが、幕が開くと同時にそういう固定概念からブチ壊された。
たしかに演者は交わらないし、一定の距離を常に保っている。だが、そのルールのもとで舞台上を縦横無尽に動き、歌い踊る。『黑世界』は「朗読劇」の名を借りた、ただただ極上のミュージカルだった。
兎に角まずシュカ役の松岡充が圧巻である。
彼の歌声の迫力には言霊が乗っている。全6話の端々でシュカはリリーの前に現れる。各話、末満さんだけじゃなく様々なクリエーターが脚本を書いている混沌とした世界に、シュカが登場することでひと繋ぎの物語であることの橋渡しとなってくれていた。
ところでシュカという名前の由来はなんだろう。花の名前にシュカというのは思い当たらない。パンフレットとかに書いてあるのかな。インド神話に『バーガヴァタ』という12章にわたるヴィシュヌ神とその化身たちに関する神話集がある。その神話を後世に伝えた人物がシュカという名だ。リリーの旅を見守る傍観者と神話の伝道者、どこか似たイメージを重ねるのだが。
「マルグリット」と「マーガレット」
【雨下の章】でひと際、異彩を放っていたのが3話「求めろ捧げろ待っていろ」だった。僕は不勉強で存じ上げなかったのだが、脚本を担当した中屋敷法仁さんは、いつもあんな感じのエキセントリックな脚本を書かれる方らしい。どんな題材であれ、中屋敷色に染める人だと言われていた。
完全に「どうかしている世界」が舞台上では繰り広げられていた。中尾ミエ演じるマルグリットはフランス語で「マーガレット」を意味する。トチ狂ったように自傷し、その血をもって吸血種を呼び寄せて愛するヴァンパイアハンターに助けられることに悦びを感じているマルグリットは、完全に繭期を拗らせて自らをプリンセスと称していた「マーガレット」のようだった。
しかしそんな「どうかしている世界」も全て【繭期】のひと言で片付けられてしまう『TRUMP』シリーズの底知れぬ包容力には脱帽だ。色んな脚本家が連作することの歪さをも「【繭期】の不安定な状態」を表現するファクターでしかない。
それにしても世が世なら3話のラストはペンライトを振りながら応援観劇をしたかった。
死なないことの不幸せ
4話は末満さん自身の「少女を映す鏡」、5話はミステリ作家でもある降田天さんによる「馬車の日」。どちらも短編ミステリとして上質で濃厚なアクセントを生んでいた。また「不老不死」というキーワードを最大限に活かした構成に唸らされる。
「少女を映す鏡」では、人の5倍の速さで老化していく少女との出会いと彼女によって鏡の中に閉じ込められたリリーが、そこから抜け出すことをせずに鏡の中の少女として寄り添い、見守り、看取っていく。「不老不死」となり、人生に対する想いも希薄になってしまったリリーが日に日に老化していく少女に何を重ねていたのだろう。「死ぬことの恐怖」と「死ねないことの恐怖」どっちがより恐ろしいことなんだろうか。
「馬車の日」はいわゆる時間ループものだ。同じ日の繰り返しを永遠続ける茶番をもリリーは受け入れて抜け出すことを止めてしまう。「時間のループ」も「不老不死」もリリーにとっては大差ないのだろう。いや、同じ時間を繰り返すということは、そこにいる人々との時間が続くということだ。独りぼっちになってしまったリリーにとっては、かりそめの家族であっても孤独より幸せに感じていたのかもしれない。
永遠に続く「生」に疲れ果てているリリーの厭生観が垣間見える2本だ。
ふたつのスノウ
最終話「枯れゆくウル」でシュカの正体と目的が明らかになる。その悲しくも苦悶に溢れた想いには胸が痛くなる。ブラド機関によって幽閉され心を閉ざしていたリリーは、シュカが何気なくプレゼントしたスノーフレークの花に涙を流し、心を取り戻す。このスノーフレークでリリーはスノウを思い出したのだが、ここで疑問というか僕は少し混乱している。
『LILIUM』のスノウはスノーフレークだったのか?
『マリーゴールド』でも花言葉の歌で『LILIUM』に登場する少女たちが登場する。だが、そこではスノードロップとして出てきて花言葉は「穢れなき心」と歌われる。これ、おかしいのだ。スノードロップの花言葉は「希望」とか「慰め」、また一説には「死」を暗示する伝承もある。「穢れなき心」という花言葉はスノーフレークの花言葉だ。
なのに『マリーゴールド』では「スノードロップは穢れなき心」と間違ったことを歌う。
いまだ語られていないリリーの物語に『雪月花』というものがある。そこでは放浪の旅をするリリーがスノウと瓜二つの少女に出会うらしい。もしかしたら『雪月花』が上演される時に「スノーフレークとスノードロップ」二つのスノウの謎が解き明かされるのかもしれない。
最後に末満さんに壮大な謎を投下された気分だ。だが、同時に僕は夢想する。『雪月花』においてリリーとスノウが再会することを。鞘師里保と和田彩花が邂逅する未来を。
それは、もしかしたら遠くない未来かもしれない。