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保育論文からわかる筆者の保育観


私は保育士として働きながら、大学院で保育を学び、研究を行っている。

そのため、様々な形で保育学の論文を読んでいるのだが、教員の先生とのやりとりは、本を読む中で、わかってきたことがある。
それは、論文は筆者の保育観が浮き彫りになるということだ。

例えば、発達障害の子どもの研究を行う中で、ASD児、ADHD児と紹介されているものがあった。
このとき、筆者はどのような保育観をもっているのだろうか。

端的に言って、その子を「障害児」としてみているということだ。
先生の受け売りであるが、子どもを障害児としてみるのは、大人なのである。
ASD児、とレッテルを貼られたその子は、Aくん、Bちゃんという一人の子どもであり、人間である。
その子をそのように扱うことは、暴力的に言えば、人としてみていないということだ。

もう一つ事例を出そう。
ある研究において、新人保育士がどのように成長するのかを研究したものがあった。
私がみた限り、非常に丁寧に事例分析がされており、よい研究であると感じた。
この論文において、筆者は「新人保育者」に対して、リスペクトをもって接していると感じた。
新人保育者をどのように捉えるか。
「未熟な存在」と捉えるのか、「成長する主体」と捉えるのか。
この論文においては、筆者が後者の保育観を持っていたがゆえに、この研究結果が生まれたのではないかと思う。

これから、私は修士論文を書いていくことになる。
その中で、私の保育観がどのようなものなのか、改めて問われていくのではないかと感じる。

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