インタビューとは何か、それは共同作品。
保育の研究を行うとき、よく使われる手法が「インタビュー」
でも、インタビューをする、とはどのようなことだろうか。
最初にイメージが浮かんだのは、テレビの街灯インタビュー。
商店街のお客さんに、
「最近の物価について、どう思いますか」
とレポーターが尋ねると、
「いや、結構高いね」
と答える。
そこには、お客さんという話し手と、レポーターというきき手の二人がいて、そこには「きく」「話す」という一方向な構造があった。
それがインタビューであると思っていた。
でも。それは果たして適切なのか。
この構造の最大の欠点、それは権力性にあるのではないか。
インタビューは、きき手の質問によって進められていく。
質問とは、相手が心の中に抱いていることを明らかにするということ。
その中には、相手が「話したくない」とされているものもあるかもしれない。
それを引っ張り出そうとする点において、きき手の力が働いている。
これが権力である。
この権力の源はなんであろうか。
それは、相手が「きく立場」という権威性であり、「きく」「話す」という、特殊な場の支配が挙げられるだろう。
この構造から脱却する方法はないのだろうか。
ある。それも極めて単純なこと。
それは「きき手」が「話し手」になること。
自身の思い、経験、考えを話す。
その思いを受けて、「話し手」はさらに「話し手」となっていく。
すると、一方的な関係から、「話し手」と「話し手」という双方向的な関係へと変化する。
「話す」「きく」という支配的な場から、対話テーブルの場へと変化していく。
インタビューはもはや、単なる質問をきく行為ではなく、「話し手」と「話し手」がつくる共同作品へと昇華していく。
これが、インタビューではないかと思う。