ピアノのひとりごと

1974年春
岡山の西大寺のKさんちにぼくはやってきた
この家のきょうだい、ともちゃんとひろしくんがピアノを習い始めたからだ
お母さんはなかなか凝り性らしくて
よくあるYAMAHAやカワイの黒いピアノじゃない、ぼくの飴色ボディが気に入ったみたいだ
ともちゃんはディアパソンって読むん?なんでYAMAHAじゃないんだろう?と思ってたみたい
遠慮がちに弾くともちゃんとは対照的に
ひろしくんは思い切りよくリズム良くぼくの鍵盤をたたく
ふたりとも、ちゃんと毎日弾いてくれたよ

1976年3月
お父さんのお仕事の転勤で、石川県小松市に引っ越すことになった
ぼくにとっては初めてのお引越し
ともちゃんたちはもう5回目だって
みんな知らない土地での暮らしに慣れるのに一生懸命だったよ
市内で違うお家にお引越ししたのにまたしても
1979年3月石川県羽咋市へ
ひろしくんは野球に夢中になっていて、この頃からはぼくに全く見向きもしてくれなくなった
ともちゃんは部活が忙しかったみたいだけど
クラス対抗合唱コンクールの伴奏の練習を頑張っていたよ
課題曲は確か「モルダウ」だった

1980年3月またまた小松市へ
みんな小松での生活が楽しくて、忘れられなかったから、お家を建てて暮らすことになったんだ
でも、お父さんは単身赴任することになって、みんな嬉しいような淋しいような気持ちだったみたい
ぼくも4回目の引越しでかなりあちこちぶつけられちゃって、フタや脚に傷がいっぱいできた
ともちゃんはそれを気にして、いつもなでてくれたっけ
合唱曲「大地讃頌」の伴奏の練習も頑張ってたし、フォークソングにハマったらしくてかぐや姫や中島みゆき、アリスの曲なんかも練習してた
ひろしくんが弾いてくれることは無くなったけど、野球では大活躍してたみたいだ
中学野球では北信越大会で優勝して横浜スタジアムでの全国大会に出場
駅前の商店街をチームメートたちとパレードしたんだって
高校野球でも、創部以来初めての甲子園出場の夢を果たした
小松はずいぶん盛り上がったみたいだったよ
ともちゃんは高校生の時はサザンオールスターズのコピーバンドでピアノを弾いたり、大学でもテストや授業でピアノの課題があったりしたから、ずっと弾いてくれてた
ひろしくんは京都の大学に入学が決まり、小松のお家から巣立っていった

1988年5月
お父さんがぼくの目の前で倒れた!
幸い命に別状はなかったけど、一時的に意識を無くしてたし、お母さんもともちゃんもその場にいてすごくびっくりしてた
救急車が来るまでの時間をとても長く感じたよ

1989年「昭和」が「平成」にかわった
お父さんはまだ病気の影響があったのに、春から東京に勤務するように辞令が出た
お母さんもともちゃんも、お父さんをひとりで行かせられないと思って、一緒に引っ越すことにした
ぼくも連れて行ってもらうことになった
5度目の引越しは埼玉県越谷市
お隣さんは若いご夫婦で、奥さんはピアニストだって!
ともちゃんは、隣のピアニストに自分の演奏を聴かれるのを恥ずかしがって、なかなか弾いてくれなくなった
ぼくはまるで部屋の家具のようにそこでじっとしてた
ともちゃんは東京でお仕事するようになって、そこで知り合った人と結婚した
しばらくして、ともちゃん夫婦は小松の懐かしい家に住むことになって、初めてぼくと離れ離れになった

1993年1月
ともちゃんたちにこどもが生まれた
みほちゃんという可愛い女の子だ
みほちゃんを膝に抱っこして、ともちゃんは童謡やディズニーの音楽なんかを弾いてくれたよ
良い時代だったな…
お父さんは初孫のみほちゃんととっても馬が合うみたいで、みほちゃんと会って過ごすうちにみるみる元気になっていった

1996年3月
金沢に転勤になったお父さんとお母さんと一緒に、ぼくも懐かしい小松のお家に帰ってきた
ともちゃんたち家族3人は金沢のマンションに住み始めたけど
しょっちゅう小松に来ては、みほちゃんもぼくに触って遊んでくれてた
ひろしくんも結婚して家族が増えて、小松に帰省してきて賑やかに過ごすことが度々あったから、ぼくも楽しかったなあ

2013年10月
お父さんとお母さんが金沢のマンションに引っ越すことになった
小松の家は大事な思い出のお家だったけど
お父さんの体が不自由になってきて、ともちゃんたちの近くで暮らすことを選んだんだ
マンションにはぼくは一緒に行けない…
ぼくはピアノの修理の上手な「ピアノスマイル」さんに入院することになった

2014年6月
ともちゃんが金澤町家をリノベして、コミュニティカフェをオープン
そこでみほちゃんの作ったおやつとお母さんが心を込めて淹れたコーヒーやお茶を出していた
ぼくはメンテナンスが終わり、中身も外見もピッカピカに生まれ変わった姿でお店の中に置かれた
お店では、ピアノとボーカルや二胡のコンサート、楽しいアカペラのグループやジャズのコンサートなども時々催されて、ぼくはその度に大活躍
音色が良いね、とほめられたぼくは鼻高々だった
だけどその後…
大切なお父さんが亡くなって、お母さんとともちゃんはとても元気をなくした
コロナ禍という時代の変わり目もあってお店を手放すことになった
お母さんは「もういいよ、充分楽しませてもらったよ」とぼくのことをあきらめるように言ったけど、ともちゃんは家族の大事な思い出がいっぱい詰まったぼくのことをこのまま知らない誰かのところに行かせるのはどうしてもいやだったみたい
京都に住んでるひろしくんのところにも聞いてみたけど
うちには弾く人が誰もいないし、引き取れないって言われてしまった
困ったともちゃんは、ぼくを生まれ変わらせてくれた「ピアノスマイル」さんのことを思い出した
家族みんながお世話になった、思い出のふるさと小松で、ぼくをずっと大事にしてくれるところに寄付したいってお願いした
ピアノスマイルのふゆきさんは、腕組みをして考えていた…そして「わかりました、行き先を探してみましょう!」と言ってくれた

2022年10月30日
ぼくは、小松空港に置いてもらえることになった
「空港ピアノ」だ
なにやら今日はセレモニーも開いてくれるらしい
ふゆきさんのおかげだ
ともちゃんたちも喜んでる
仲良しだったKさんちの家族との別れはさみしいけれど
これからは空港を行き来するいろんな国のたくさんの人たちがぼくを見て、曲を奏でてくれるのを楽しみにしている
8回目の引っ越し先は空の玄関口小松エアポート
ともちゃんやみほちゃんが初めて飛行機に乗った空港だ
ぼくはここでKさん家での思い出を胸に抱いて
これから先ずっと小松で
白山連峰に見守られながら
輝き続けたい、とおもっている



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