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日本のサッカージャーナリズムはなぜ赤点なのか

はじめに

就任当初から何かと叩かれているサッカー日本代表森保ジャパン。いよいよ佳境となったワールドカップ最終予選を果たして勝ち抜くことが出来るのか、やきもきしている人も多いのではないかと思う。代表戦の直前ともなると、一般のサッカーファンからスポーツ担当記者、果ては元サッカー選手に至るまで、それぞれの有識者が思い描く「僕の考えたスタメン」が紙面上を賑わすのも風物詩だ。また現在では紙面上のみならずyoutubeなどの動画配信上でも有識者によるプレビューが盛んに行われている。

だが、そこに潜む違和感について気付く人間は驚くほど少ない。というよりもむしろそれが余りにも自然のことと受け止められ過ぎており、今更疑問が生まれる余地すらないようにすら見受けられる。

前回の記事で、日本人は「相手の立場に立って物事を考える」ことが苦手な国民性だということを述べた。またそれに関連して自らのアクションに対する予測に乏しい文化であるという言及も行ったが、今回はそうした日本人の国民性がもたらす影響の一例について、サッカーを軸に述べていきたい。

紙面上の違和感

まずは日本代表のスタメン予想に関する2つの記事をご覧いただきたい。

日本代表、「勝てばW杯出場」の最終予選・オーストラリア代表戦「予想スタメン」!!「大雨予報」の大一番…冨安健洋、大迫勇也、酒井宏樹の「代役」と久保建英の「可能性」

日本代表の予想スタメン! ベストメンバーならこの11人。南野拓実、大迫勇也の起用は…

ほんの一例ではあるが、これらの記事を読んで特に違和感を覚えなかったというそこのあなたは、立派な一般的日本人と言えるだろう。「どこにそんなものが?」と思われる人もいるだろうが、これらには共通してある視点がスッポリと抜け落ちてしまっている。それは「相手に対する言及がまるで無い」ということだ。

ぶっちゃけた話をすると、これをオマーン戦とかベトナム戦に向けたプレビューだと言い張っても恐らくバレはしないだろう。それほどまでにこれらのスタメンには、相手というものを勘定に入れた形跡が見当たらない。というよりもオーストラリアの選手名一人すら挙げられていない始末だ。徹頭徹尾日本が日本の都合だけでどうしたいか、それだけしか語られていないのである。

これがフィギュアスケートや体操といった、他者との比較がそれぞれ独立した競技ならいざ知らず、相手ありきの集団競技において対戦相手のことが何も考慮されていないスタメンというのは余りにも片手落ちではないだろうか。

「相手を見てサッカーをする」ということ

元サッカー日本代表で、現在は鹿島アントラーズのコーチを務めている岩政大樹氏の著書に『FOOTBALL INTELLIGENCE 相手を見てサッカーをする』という本がある。

個々の状況において、「相手を含めた上で」どういうプレーを志すべきかを元選手の視点で説いた名著であり、ご存知の人もいるかと思うが、岩政氏はその序文においてこう述べている。

「ある時期から日本では『自分達のサッカー』から”相手”が存在しなくなったように感じました。『自分たちのサッカー』が”相手云々にかかわらず自分たちがやるべきこと”だけになり、”相手によって変えるべきもの”が排除されたようでした……(中略)そこには、国民性のようなものが影響しているところもあったと思いますが……」(p.10,11)

今でこそ若干ピークアウトしたように思えるこの「自分たちのサッカー」という言葉、勝った試合では「自分達のサッカーが出来た」負けた試合では「自分達のサッカーが出来なかった」などと選手の口からもよく聞いたものである。まるで「自分達が」それを遂行できるかどうかこそが勝負の分かれ目であると言わんばかりの発言であり、当然その中に相手の勘定など入っていない。

岩政氏の序文は我々素人のみならず日本サッカー界の頂点ともいえる代表の選手ですらそういう認識であったことに警鐘を鳴らしたものと言えるが、表立って分かりやすい言葉を使わなくなっただけで、今現在であっても残念ながら状況は劇的に改善されたとは言い難いように思う。

「サッカーを知らなすぎる」日本人

田中碧が東京五輪メキシコ戦後「サッカーを知らなすぎる」と発言したことで一時期話題になった。勿論その真意は自らに対する戒めであるが、今もって日本代表が世界のトップに対し1対1以上の「チームとして」どう戦うかの道筋が暗中模索であることの証左ともいえる(それでも『自分達のサッカー』という形の無い理想郷を追い求めていた頃と比べれば幾分進歩したようにも思える)。

前述の本の中で岩政氏がマリーシアについて言及している箇所がある。決定力不足と並んで日本サッカー永遠の課題と言われるこの言葉について、岩政氏は「相手を見てサッカーをすること」だと定義している。それはそれで正しいと思うが、私自身は更に踏み込んで「相手がその時々でされて嫌なことをすること」であると認識している。

マリーシアを単に「ずる賢さ」と訳したことが日本人の抵抗を生んだそもそもの原因だと思うが、本質的には具体的な一つ一つのプレーを指すのではなく、その時々の状況において相手がされて嫌なプレーを攻守問わず行うことに過ぎない。サッカーが相手ありきのチームスポーツである以上、やっていることと言えばそれを行おうとする力と、阻止しようとする力とのせめぎ合いの連続でしかないのだ。

そしてそれを行う為には岩政氏の言うように常に相手を見続けることが必要不可欠だ。もっと言えば「相手の視点」に立たなければ攻守において相手がされて嫌なことというのは見えてこないだろう。田中碧の言う「サッカーを知らない」という言葉の本質はそこにあると言って良い。マリーシアが未だ日本サッカー界に根付いていない文化な以上、個人レベルでも相当のバラつきがあるだろうから、複数人による意思疎通のとれたマリーシアなど簡単に行えるはずもない。現状世界との一番の差、そして上位を目指す上で一番の壁がこの部分だろうと思う。

メディアの現在

さて、話を本題に戻そう。前述の通り日本の頂点に君臨する代表選手ですら十分に「相手を見る」文化が根付いているとは言い難い今の日本サッカー界にあって、いわんや素人たる我々をやという話ではあるのだが、それにしても試合を直前に控えた代表のスタメン予想の根拠として、相手のチームに対する言及が一切無いというのは冷静に考えると異常でしかない。

また、日本のメディアにおけるマッチプレビューというのは大部分が「日本がいかに相手ゴールをこじ開けるか」に終始したものであり、それ以外の特に守備に対する具体的な言及というものは基本的に無いと言って良い。それもそのはずである。相手がどう攻めてくるかという相手の立場に立った視点抜きには、それに対応する守備の議論などできる訳が無いからである。そしてそれは相手の特徴・戦術・選手を理解することなしには始まらない。

その意味で、未だに相手の情報を抜きにした、単なる「僕の考えた最強の日本スタメン予想」が当たり前のように蔓延る日本のサッカーメディアのレベルというのはJリーグ創成時から30年間時が止まり続けていると言っても過言ではないだろう。表題にもあるように日本のサッカージャーナリズムが常に赤点なのは、「相手側の立ち場」という片方の視点がまるっと抜け落ちている以上その時点で100点満点の50点を失っているため、どうあがいても50点以上を取ることはできないからだ。誠に悲しむべき問題ではあるがこれが日本のサッカーを取り巻くメディアの現状なのである。

メディアのこれから

そんな日本サッカーメディアの絶望的な現状であるが、その中で一筋の光明を目にした。この記事を書くきっかけにもなったものが以下のマッチプレビュー記事だ。

論客らいかーると×みぎの豪州徹底分析 「ガクッと落ちる75分以降はチャンス」

Sportsnavi掲載の記事ということで私も含め目にした人も多いだろう。私自身寡聞にしてこのらいかーると氏もみぎ氏もこの記事を目にするまで存じ上げなかったが、上にある二つの記事とこれを読み比べてみるとその圧倒的な情報量の差に思わず苦笑するばかりである。

「日本のスタメンはある程度予想がつきますが、オーストラリアはどんな顔ぶれを送り出してくると思いますか?」という司会の飯尾氏による振りから始まるこの対談形式の分析、初手から対戦相手のオーストラリアの話をぶち込んでくる時点で既に他の記事と一線を画していることが伺える。

この対談形式というのも記事のクオリティ向上に一役買っているといえるだろう。主として対戦国のオーストラリアに関する飯尾氏、みぎ氏の的を射た質問に対し、らいかーると氏がその分析力でもって当意即妙の回答を行い、そこからさらにそれを踏まえて日本はどう戦うべきかという議論に自然と発展している。

そこで繰り広げられる光景こそ、まさに本来あるべき「分析」といえるものである。「自分達の手持ちは○○、それに対して相手は○○。そうした時に相手はどう戦ってくることが予測されるからそれに対して自分達はこう戦うのが良いだろう。」そういった分析として、試合前の予測としてあるべき流れが、対談形式という形を通じて見て取れる。

この流れが意図されたものであるかはさておき、これ程のクオリティの分析が多くの人の目に触れる場所で掲載されたことは大変に意義があることだと思う。この先のメディアの在り方においてこの水準がスタンダードとして広く一般に認知されるようになった時、日本のサッカー界はまた一歩前進するだろう。

また、大事なのは対談形式によらずこうした論理展開を常に繰り広げることが出来るかということである。いつも対談形式という訳にはいかない以上、記事の書き手が質問者と回答者それぞれを一人ニ役でこなさなければならない。だが何もそこまで難しい話ではない。やり方は既に2000年以上も前に既に示されている。即ち『孫子』にいう「彼(敵)を知り己を知らば百戦危うからず」ということだ。

これからのサッカー界、そしてその裾野を広げる役割たるサッカーメディアの更なる発展を願いつつ、今夜の試合に備えたい。

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