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手話を学ぶと、表情が豊かになるらしい。【現役高校教員のエッセイ】
高校生に向けたエッセイです。実際に、教室に掲示しています。
先日、本校にて、福祉実践教室が開催された。
前半は盲導犬についての講話、後半は各講座に分かれての講話という2本立て構成だった。
後半の講座は視覚障害のガイド、もしくは、手話体験の講座の選択制で、生徒は事前に希望する講座を選ぶことができた。
我々、教員もどちらかを選択することができたため、僕は迷わず手話体験の担当になることを希望した。
その理由は、言うまでもなく、ドラマ「サイレント」がたまらなく好きだったから。ただそれだけだ。不純な動機だと言われても仕方がない。
動機はどうであれ、実際の手話体験は非常に有意義なものだった。講師の方は、手話や聾学校について説明してくださった。
それから、手話で名前をどう表現するのか、生徒の名前を1人ずつ聞いては丁寧に教えてくださった。漢字の形をそのまま手で表現したり、漢字が表す意味を手で表現したり、様々なパターンがあることを知った。
それから、「楽しい」とか「悲しい」とか、感情を表す手話も教えていただいた。確かに、感情も言葉として伝えないと、相手には分からない。
改めて「言葉」というものは、こんなにもたくさんの種類があるんだということに気づかされた。
ここで、さらに興味深いことがあった。それは、「楽しい」「悲しい」などの感情を修飾する言葉はどのように表現するのか。ということだ。
つまり、「とても」や「少し」などの、いわゆる副詞と呼ばれる言葉をどのように表現するのか、ということだ(国語科教員感が出てますね、失礼)。
「楽しい」「悲しい」の手話は分かったが、その細かいニュアンスをどう相手に伝えるのか。
何気ない日常の中で、ふと感じる小さな「楽しい」と、旅行やイベントなどで感じるスペシャルな「楽しい」は明らかに違うはずだ。
ドラマや映画を観たときの「悲しい」と、何か大切なものを失ったときの「悲しい」は明らかに違うはずだ。
そういったニュアンスをどう表現するのか。
なんと驚くことに、それらの副詞的なニュアンスを伝える手話はないらしい。
では、どうするのか。
「楽しい」や「悲しい」を表す手話を行う際に、動きを大きくするだとか、満面の笑みを作って見せるだとか、唇をきゅっと結んで見せるだとか、要は動きと表情でニュアンスを伝えるらしい。
なるほど!Simple is the best.
難しいことではなかった。
声が聞こえなくても、声を発することができなくても、表情を上手く使えば伝わるに決まっている。
これは、シンプルが故に非常に興味深いことであった。
講師の方は「手話を使うと、自然と表情が豊かになる」とおっしゃっていた。確かに、納得!
余談だが、コロナ禍になり、マスク着用が一気に普及してしまった際、講師の方は大変苦労をされたそうだ。表情という重要な情報を欠くことになってしまったからだ。
声が聞こえない人にとって、無表情に見えるマスク姿はマネキン同然に見えただろう。
もはや恐怖にも近い感覚だったのかもしれない。声も聞こえず、無表情か。おぉ、こわっ…。ん…ここでふと思った。
これに似た状況、経験したことあるぞ。しかも、頻繁に起こるぞ。あの状況と同じじゃないか!
それは、僕が最も忌み嫌う瞬間の一つだ。
発生場所は学校、主に授業中に起こる。
「前回、どこまでやったっけ?」
「ここまで、大丈夫そう?」
と問いかけた瞬間、生徒が一点を見つめ、静寂が襲ってくる。
教室内が真空状態になってしまったのではないかと錯覚し、あわや呼吸困難に。あのなんとも形容しがたいぱさぱさとした雰囲気。
あの瞬間と似ている。
授業中だから声を出せないのは分かる。そもそも、私語を慎むよう指導しているのは僕らだ。ただ、声が出せないからといって、表情まで慎む必要は無いだろう。
表情という重要な情報は、声を出せない時こそ上手く使うべきだ。
そんな中、僕の話をうんうんと頷いたり、ん?と顔をしかめたり、ニコッと微笑んだりしながら聞いてくれる生徒もいる。
砂漠の中にもオアシスは本当にあるんだと思わせてくれる。ありがとう。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。