カラオケ、MBTI診断、勧善懲悪の正義は何処にあるだろう
先日トロントの友達に誘われてカラオケに行く機会があった。私は昨年鬱屈としてる期間が長くてその友達とはなかなか連絡を取れていなかったのだが、そのことを謝ると爽やかに受け入れてくれて、遊びに快く誘ってくれて本当に嬉しかった。
他にも私が会ったことがない友達をいろいろ誘っているようだった。私は人とコミュニケーションをとることが大好きだけれど、大人数になると深い対話にたどり着くのが難しいのであまり好きではない。
けれども友達のことは信頼しているのでその友達なら大丈夫だと思えた。
思い返せば私は結構カラオケが苦手だった。
小学校〜社会人に至るまで、自分はあまり音楽が好きではないとも思っていた。
小学校中学年までは音楽の時間が大好きだった気がする。ある日家の中で歌っていると父親から
「そんな下手くそな歌、歌うのやめろ」
と言われたんだ。
思い返せばその一言はとても大きくて、それ以来歌うのを辞めたのかもしれない。
私は歌詞を耳で聞いて覚えるのが苦手だった。音を記憶できないんだ。人の名前を覚えるのも苦手だ。今にしてみるとワーキングが低いことも関係しているのだろう。
流行りの曲をすぐ歌える友達はすごいなあと思っていた。けれども流行っているからってそれが私の好みとは限らない……とも思っていたんだ。
小中高ではそもそも友達とカラオケに行ったことがなかった。学校生活はそれなりに楽しんでいたけれど、めちゃくちゃ楽しくはなかったし、ある程度みんなと仲良くしていたけれど、中高はどちらかと言えば「陰キャ」よりだと思っていた。
6年間の中高一貫校。異性から隔絶された生活。それなのにこれといったオタク生活を送るわけでもなかった。部活でやっていたスポーツは好きだった。けれども周りの人と比べて温度差を感じることもあった。みんなはプロの試合の話をよくしていたけれど私は別にそのスポーツの大ファンなわけではなかった。それよりも一生懸命身体を動かしているときに無心になれる瞬間が特に好きだった。私のエネルギーは常に体の中を、頭の中をぐるぐる回っていたのかもしれない。
大学は少し田舎の大学を選んだ。一人暮らしをして新しい世界で生きたかったんだと思う。
その世界は自分が今まで縛られたきた常識とは全く違う法則で成り立っていて、自分を久しぶりに解放できた気がしたのを覚えている。
田舎なので遊びといえばカラオケは選択肢に入りやすい。カラオケの機会は自然に増えた。アルバイト先の先輩とカラオケに行くということも初めて経験した。世代を合わせた曲を歌わないといけないのかなとか、ふざけた曲を歌って喜ばせないととか考えることもあった。アルバイトの同僚はみんな好きだったし、そういうのも新鮮で面白かったけれど、正直煩わしいなと感じていた。
飲み会終わりなんかに友達とカラオケに行くこともたまにあった。歌うのがうまい人と比べて自分を卑下することもあった。次に誰が曲を入れる番なのか考えておかないといけなかった。歌詞を覚えていて歌えるメジャーな曲を探すのに必死だった。マイナーな曲を歌うと空気が淀む感覚があった。それを感じる度に
「何で私はここに来たんだろう」
と思った。
たまに仲良い友達と気兼ねなく歌える瞬間は楽しかったけれども、カラオケは自由な場所というイメージはなかなかもてなかった。
社会人になるとカラオケに行くことも少なくなり、たまに友達と行くくらいになっていた。それでもやはり私は心からカラオケが好きではなかった。
話が長いのは私の癖だ。申し訳ない。
時間は現在に戻る。
私は自分の心に正直に生きることに決めた。久々のカラオケで最初は緊張していたけれど、なんだか楽しめる気がしていた。
当日会った人たちはいろいろな「国籍」の人たちだった。日本語の曲が好きな人もいれば、ほとんど日本語が分からない人もいた。歌が「上手」な人もいれば「下手」な人もいた。
でも関係なかったんだ。
最初はみんなの曲を聴きながら、周りが知っていそうなアニソンを入れてみた。今までなら上手く歌いすぎようとして声を張り上げて喉が枯れるような歌い方をする時もあったけれど、自分らしく歌えばいいんだと思えるようになっていた。今は自分の力を100%発揮すればいいと感覚でわかる。すごく心地よく歌うことができた。アニソンが好きな人はとても喜んでくれた。でも知らない人もいて日本語の曲ばかり歌うのも少し違うかなと思った。
私はある程度英語ができるようになっていたし、洋楽も歌ってみようと思った。洋楽ファンではないので最新の曲は全く分からないが、比較的古い曲を今でもよく聴いている。歌詞がとても深くて大好きな曲たちだ。歌ったことはないけれど、今なら歌える気がした。
歌ってみるとすごく心地よかった。間違えるところもあったけれども別にプロじゃないんだから問題ない。ぽてとの選曲はクラッシックだね。すごくいい歌だよねとみんなも喜んでくれた。
大好きなMr.Childrenの「名もなき詩」も歌った。知っている人はいなかったけれど、やっぱり一番好きな曲は気持ちよく歌える。ラップみたいなところがかっちりハマったときはみんな盛り上がってくれた。すごく楽しかった。
好きな曲を好きに歌った。友達の曲は知ってたら一緒に歌って盛り上がった。知らない曲なら新しい歌詞やリズムに出会えた。すごく楽しくて5時間以上みんなで楽しんだ。
カラオケが終わると、みんなから
"You're a lier~!"
って冗談で責められた。
「私はカラオケあまり得意じゃないから……」
って言っていたんだ。それは日本人的謙遜でもあったし、本当に苦手だと思い込んでいたんだけれど、蓋を開けてみれば私は一番と言ってもいいくらい楽しんでいたと思う。
みんな
「ぽてとの選ぶ曲みんなよかったし、歌もよかったよ〜」
と言ってくれた。
すごくいい友達ができたし、このカラオケでたくさんのことを学べた気がする。
日本の曲が大好きだという友達の一人がこの曲を歌っていた。
数年前にダンスと一緒に流行っていたのを覚えている。ダンスやサビの部分しか注目してなかったけれど、今改めて聴いてみるとめちゃくちゃリズムがかっこいいし、歌詞の深さに惹き込まれた。
「俺たちだって動物
故に持ち得るoriginalな習性
自分で自分を分類するなよ
壊して見せろよ そのbad habit」
本当にそのとおりだよね。
仲の良い日本人のドラマーに誘われてOpen Jamというものにも行ってみた。
音楽好きが集まって自由にセッションしていくのだ。飛び入りでどんどん入れ替わっていく。交代の間もシームレスに演奏は続いていき、何時間もの間続いていく。常連もいれば今日初めて来てステージに上るという人もいる。みんなで1つの音楽を作り上げるんだ。
ギター、ベース、ドラム、キーボード、ボンゴ、ボーカル。
どんどん人が入れ替わりながら演奏は続いていく。トランペット、ハーモニカを持ってきて参加する人もいる。板をステージに持ってきてタップダンスをする人、犬と一緒にステージに上がって歌う人もいる。ボーカルがいないときの楽器だけの演奏もめちゃくちゃカッコイイ。
有名なバンドとかじゃなくて、ただの音楽好きが集まっているだけだからフロアもそんなに混んでは居ない。端で静かに座って見ている人がいる。拍手する人歓声を上げる人もいる。フロアの中心で踊る人も、ステージに乗り上がらんばかりに近づいて写真を撮る人もいる。それも音楽の一部な気がしてくる。
私の英語力はまだまだで歌詞を完全には聞き取れないけれど、それでもいいんだ。歌詞に縛られないからこそ演奏のかっこよさやグルーヴを感じられるのかもしれない。歌詞が聴き取れるとそれはそれでやっぱり面白い。知っている曲をアレンジする人もオリジナルっぽいラップを歌う人もいる。たまに外国語で歌う人もいる。
私はそこで出会った人に
「日本語のラップ歌ってよ」
と言われたけれど、みんなとっても上手だからとてもじゃないけれど無理って断ったんだ。けれども心から楽しんで演奏を聴いていると、みんなで作り上げるグルーヴの一部に自分も参加している気がしてくる。気づけば隣の人と謎のダンスを踊っていたし、小声でわけわからん歌を歌い始めていた。あのステージに上がって自分も参加できたらもっと楽しいだろうなと思い始めていた。
私はヴァイオリンを習っていたことがあったし、高校のときは学祭限定だがバンドでベースを弾いていた。それを友達に話したら
「音楽があまり好きじゃないなんて嘘じゃーん」
と笑われた。
確かに私は私なりに音楽が好きだったんだろうなと思った。好きの在り方を他人と比較して勝手に自分を否定していたんだ。
私は自分で自分を分類していたし、自分に対して嘘つきだったんだ。
MBTI診断?16 personalities診断?というものも最近流行っているけれど、個人的には割と好意的に見ている。
以前自分が診断すると、時期によって3種類で揺れ動いていた。
溢れんばかりのエネルギーをどう発散したらいいか悩んで生きてきたからかもしれないし、いろいろな経験を経て変化もしていたんだと思う。
最近自分の心のままに生きる決心がついてから改めて診断してみると大変興味深い結果だった。そりゃ笑っちゃうほどに笑
自分としては納得の結果だった。
知りたいですか?
ぜったいに教えません!!
私はMBTI診断を自己分析ツールとしてはとても有用だと思っているけれど、それで人を判断するのは大反対だ。
MBTI診断だけがあなたじゃないでしょ?人間は16種類に分類できるワケがないじゃん。
個人的には私の人となりをよく知ってくれている人にだったら教えてもいいと感じる。あくまでも1つの参考にしてくれるから。
私は誰かに分類されるのも自分で分類するのももう懲り懲りなんだ。
ある日友達の家で映画やアニメを観ていた。
その日は
「ONE PUNCH MAN(ワンパンマン)」
を観た。
前に漫画でさらーっと読んだことがあったけれどギャグ漫画っぽい感じだなと思って、そこまで印象に残ってなかった。けれどもアニメで見るとそのカッコよさに震えた。
「正義の反対は別の正義だ」
という言葉を聞いたことがあるけれど、まさにそんな強いメッセージを感じた。
「強くなるには一見簡単なことを継続することしかない」
これもギャグらしく描かれているけれども本当にそのとおりだ。一見大したことのないようなことでも、それをずっと続けられる人なんて本当に一握りだ。
これは決して子供向けのギャグ漫画なんかじゃない。海外の人でワンパンマンが好きという人が多いけれど、日本人よりも偏見がなく、そのメッセージ性に共感する人が多いのかもしれない。
私が小さな頃にレンタルビデオショップで借りて観た映画の中に幼いながら感動した映画があった。
「The Iron Giant(アイアン・ジャイアント)」
ワーナー・ブラザースから1999年に公開されたアニメーション映画だ。当時は話題作で今でもコアなファンがいるみたいだが、サブスク全盛の今、注目されることはないのが寂しい。
昔のことで忘れていたけれど、幼い頃の私はこの映画を観て感動のあまり、レンタルビデオショップの店員さんに続編の制作を訴えた……という記憶が朧げにある。
日本語で観るのは難しそうだけれどいつかチャンスがあったらぜひ観てみてほしい。
ネタバレは避けるけれども、人にはそれぞれの正義があるし、それを守るために偏見をもちながら必死に戦っている。それは人間だってリスだってロボットだって変わらない。それぞれ違うけれども解りあおうとすること、友達になることだって不可能じゃないという深い深いメッセージがあるんだ。
日本に限らずだと思うけれど、勧善懲悪のストーリーが多すぎると思うんだ。それは一見爽快だし、子どもの教育にも良さそうだけれど、悪には悪なりの正義があることをもっともっと深く考えることだって大切だと思うんだ。もちろん大人だって。
これは善これは悪
これはカッコイイこれはダサい
これは好きこれは嫌い
これは得意これは苦手
人は生きながら分類している。その対象は友達かもしれないし、世界かもしれないし、自分自身かもしれない。
けれども正義って実は曖昧だ。
自分にとっての正義が何かこれからも考え続けていきたい。