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ある研究者のアメリカでのコロナ体験記


コロナももはや半分過去の産物(日本では違う?)となった昨今、コロナ禍をアメリカで過ごした筆者の当時の体験記を語っていきたいと思います。ただし、もうかなり前のことですし、若干記憶が曖昧なまま語っていきますことをご了承ください。



2020年1月ごろ、米国では日本(船籍はイギリス?)の客船でコロナウイルス感染者がでたとニュースになっていたと思う。

その頃、アメリカでは「日本大丈夫か?」という風潮はあったが、完全に対岸の火事状態だった。この時、私は他人事のアメリカに対して「アメリカ大丈夫か?」と思っていたが、それ以降あまりニュースでもコロナについて報道されなかった。

しかし3月ごろになってから、セミナーがコロナの影響で中止になったり、大学の入り口に消毒液が置かれたりと、だんだん物々しくなっていった。この頃から「もしかしたら大学が閉鎖されるのでは?」という噂も聞くようになっていった。

そして来るべき3月16日、大学の閉鎖が決定された。当日はいつも通り実験をしていたら、ボスがいきなり入ってきて「今日から大学が閉鎖されるから」と伝えられた。その日中に大学のプロトコルに従って、研究室にあるエタノール、ゴム手袋等を片っ端から集めて全て病院に寄付することとなった。それと同日に、子供の保育園も閉鎖されたと通知が来たので、昼過ぎに子供を迎えに行く。

そしてそこから二ヶ月ほど、家で暮らす生活が始まった。

その間、研究室に行けるのは週に一回のみ。しかも目的は実験ではなく、研究室の冷凍庫などにトラブルがないかの確認のみに限られていた。

マウス実験をしている人は、どうしてもの場合は実験が許可されたそうだが、細胞実験が主戦場である私は何もできない日が続く。週に一度の大学の帰り道に、スーパーで買い物をして帰ろうとしたが、トイレットペーパーを始め、食料品などほとんど売り切れていたのを記憶している。そして残った食べ物を買おうとしてレジに並んでいたら、「6feet(約2m)の間をとれ!!」とおばさんに怒られた。街の人たちも殺伐としていた。

私が住んでいた場所は完全にロックダウンされていたわけではなかったが、外には出来るだけ出ないようにアナウンスされていた。当然観光地なんて行けない。なので家の近くの公園で、子供をひたすら遊ばせる日が続いた。

コロナで良かったことのひとつに、この時期に子供と触れ合う時間が増えたことが挙げられる。ある意味いい思い出である、もう一度やれと言われたら嫌であるが。

当然であるが、新型コロナが始まったばかりだったのでどこの保育所、ベビーシッターにも子供の世話は頼めない。私はこの間、ある助成金をいただいていたが、「奨学金をもらいながら、何もせず2-3ヶ月家で過ごすなんて」と、とても申し訳ない気持ちと焦る気持ちで悶々としていた。


そして少しずつ、区画(ベイ)あたりの人数を絞るという条件でラボが再開されてた。ただし、「ひと区画につき1人が限度」とかだったので、毎日研究室に行けるわけではない。結果として私の実験は遅々として進まず、焦る一方であった。

そして研究所が閉鎖されてから二ヶ月半後、ようやく研究室に元通り行けることとなった。

ただしその後も欲しい試薬が届かなかったり、コアファシリティが開かなくて、全然思ったように実験を進まないことが続いた。

なにより大学が開いても、保育園がなかなか開かなかったのが大きな問題であった。仕方がないのでしばらくの間、配偶者と午前、午後で分けてラボに行く生活となった。周りはフルタイムで実験をし始めているのに、私は数時間しかラボに滞在出来ない。この時は大学閉鎖時より悶々としていた。

その後保育園が開いたが、子供が少しでも咳をすれば帰されるし、また少しでも風邪っぽい症状があれば家族全員を検査キットでコロナ陰性を確認しなければ登園できないなど、とても厳しい条件下で運営されていた。

保育園でアウトブレイクが起ころうものなら大問題になるので、保育園側もピーキーになっているのは理解はしていた。実際に何度か保育園でコロナ陽性者がひとりでも出ると、その度に1週間閉園となった。再度開園した際は、検査キット陰性の写真を登園前に送る必要があったので、当時の検査キットの結果の写真が私の携帯にはたくさん残っている。

当該部位には、日付と名前が書いてあるので消してます。当時は家族全員分のこの写真を送らないと園に子供を連れて行けませんでした。


このようなこともあって、大学が開いた後も常に保育園からの電話にヒヤヒヤしながら実験をしていた。今ではこの規則は無くなっているので、使わなくなった検査キットの山が家にとり残されている。


完全に元に戻ったと感じたのが「いつか?」と聞かれれば、いつかわからない。今でもコロナ前とコロナ後で色々変わってしまったので、ある意味今でも続いているのかもしれない。日本でもそうかもしれないが、消毒液のスタンドがいまだに至る所に残っている。

後から聞いた話によると、私が所属する大学では残念ながらポスドクの自殺者が出ていたらしい。彼、彼女の状況は分からないが、私には一緒に住む家族がいたので、精神的にはこれでもまだマシだったのかもしれない。もし、異国の地でひとりで、しかも研究も進まず二ヶ月を悶々と過ごすと考えるとゾッとする。しかもこの間母国にも帰れないのである。

ちなみに最後に軽く笑える話をしておく。私におけるコロナ後変わったことといえば、この大学閉鎖の二ヶ月半で完全にサボり癖が付いてしまい、今でも治っていない。これがコロナのせいなのか、そもそも私の元々の性質なのかは分からない。おそらくコロナのせいであろう。


さて、いかがでしたでしょうか?”今となってはいい思い出”とはとても言えませんが、”今”になったら語れると思い記事にしました。いつも申請書よろしくの情報量マシマシの記事で誤魔化しているので、エッセイ方式だと文章力のなさが目立ちますね泣。

こういった米国での生活情報や体験もたまには流していきたいと思いますので、興味を持った方はX、noteともに”いいね”、”フォロー”お願いします。

筆者は逆に日本の大学の当時の状態を知らないので、「自分の大学、国ではこうだった」等、コメントもお待ちしております!!


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