勤務861日目 生きづらさから十年も無職引きこもりになった自分
誰しも生きづらさを抱えているはず。
理不尽で横暴なクレーマーだって生きづらさを抱えている、というかそういう人ほど強烈な生きづらさに苦しんでいるのでは。
予防線を張っておくのですが、ぼくは現在「週五日間、八時間働いて」いますし、「所得税」を納めています。
実家暮らしの「子供部屋おじさん」ですが「家にお金を入れて」「固定資産税を払って」います。
生きづらさとはなんでしょう。
調べるとこう出ます。
「社会との関わりにおいて生じる、社会的背景を伴った苦悩」
主に人間関係において生じる問題。
ぼくは高校生になるまで、ほとんど「生きづらさ」を感じたことはなかった。
自慢ですが友達は多く、友人関係に悩むこともあったけど、死にたくなるほど苦しむ、なんてことはありませんでした。
高校から環境が変わり、三年間登校が苦痛でした。その日を過ごす自分の姿を毎夜想像し、楽になれる方法(自殺ではなくどうすれば苦しまないかの想定)を模索していました。
卒業し、就職するも毎日決まった時間に社会に身を投じ続けることが苦しくなり、逃げました。
おそらく、ぼくが「働かない人はクズ」とか「ニートは甘え」とか「穀潰しのようなダメ人間になってはいけない」とか、そういう戒めの心を抱いていたら、「がんばって」「努力して」うつ病になったのだと思います。
ぼくは割と素直で、自分の生きづらさを感じ取ってあっさり引きこもりになったのです。
でも「高校は卒業しなきゃ」みたいな考えはあったので、高校だけは卒業しましたけれど(高校ではない他の選択肢があって、それが「高校も出てない脱落者」みたいなレッテルの張られないことなら、それを選択したかった)。
自分の嫌なことを素直に受け止められたから、ペットシーツでおしっこするタイプの深刻な引きこもりにならなかったのだと思います。
その後バイトを色々しますが、人と関わることに妙な苦しみを感じ、あと決まった時間に社会に出なければならないことも受け入れられず、仕事は続きませんでした。
で、現在郵便局で3年半働いているのですが、やはりつらい。
家から近いので、「決まった時間に社会に出なければ」の部分はまだ多少マシなほうですが、人との関わりがつらい。いや、だいぶこれは慣れてきたほうなのですが、なにかとマウント取ってくるタイプの人間がいてきつい。
ぼくの性格のクセなのですが、「この人はこういう性格だからきっとこう言ってしまうんだ。ぼくは許容しよう(その方が関係がうまくいく)」と、一人一人との関係を考えて自分の態度を決めるクセがあります。
演じてしまうところがある。
これが自身を生きづらくする一番大きな理由なのだと。
社会に出なければ、一人になれば、こういうことから解放される。
「それは逆に相手に悪い、好きなように人と接すればいい」それができれば苦労はありません。
相手の言動を無視したり、あるいは「一人になりたいからもう話しかけないで」なんて言えるわけがない。より居づらくなります。より生きづらくなる。
いまの部長も本当に嫌です。直接しゃべったことないですけど、絵に描いたような古いタイプの人間で、見ているだけで心が鬱します。
仕事を辞める理由ランキングで一位は人間関係だと言います。
郵便配達員というのはぶっちゃけ社会からの脱落者の巣窟みたいなところなので、生きづらさに理解があるほうだとは思います。
だからこそぼくのような人間でも3年以上働けている、というのもある。
しかしマウント取りたがる人や、「仕事だろ」とお説教したがる人や、「頑張り」や「努力」という苦しみを美学としたパワハラじみた考えを押しつけてくる人というのはどこの会社にもいるもので。そういうのを端から見ているときつい。
自身が楽しいのなら勝手にやっていてよいのですが、「結果を出す」「結果を出させる」ことを絶対の正義として振りかざすのは、短絡的で、害でしかない。
物事は必ずうまくいかないときもあるのです。そんなときまで結果にこだわると、ただ苦しいだけになる。
ここ最近、頭の古そうな部長が朝礼で口を酸っぱくしながら営業してこいと話すのですが、仮にぼくが部長で、どうしても班員に営業をさせたいのだとしたら、「お客さんとの会話を自分たちなりに楽しんできてください」とだけ言います。
「うまくいかない」ことがただのマイナスになるのは非常にまずい。心が疲弊して続かなくなることが目に見えています。
良い結果を継続するというのは、マイナスの部分をどう面白くするかだと思うのです。
なんか変に語り出してしまったのですがなにが言いたいかというと、もっとマイナスの部分を笑える社会だったら、楽しく(良く)受け止められる環境にあったら、十年も引きこもる必要なかったって言いたいんです。
社会はどうしても、ネガティブな要素に罰を与えたがるじゃないですか。そうじゃない会社もあるはずですが、学校教育の根幹はまったく変わっていない。そしてこれからも変わらないはず。
変わらない以上「生きづらい社会」も変わらないですし、十年引きこもりがある日突然社会に出るなんてぼくのようなレアケースがほぼ起こらない。
現在引きこもりでいる約140万人は、その大半が後期高齢になるまで引きこもりつづけるはず。
家がなくなって生活保護を受けられるか、孤独死するか、無敵の人になって多くの社会人たちを巻き込むか、認知症になるか、自死するか。
もし、引きこもりが「居られる」環境を社会がまともに用意できれば。
甘やかせと言ってるわけじゃないのです。なんならそういう言葉は古い。
引きこもりが「居られる」環境を社会が用意できるなら、それは、いま「働いている人」や、いま「学校に通っている人」にとって、確実にプラスになるはず。
生きづらさを抱えるすべての人を、少しは楽にできるはず。