詩の編み目ほどき⑮ 三好達治「谺(こだま)」前編
今回は、1930 (昭和5) 年刊行の三好達治第1詩集『測量船』所収の「谺」を読み解く。
以前の記事 (「詩の編み目ほどき⑤三好達治『昼の月』」) で、達治が自らの生い立ちを綴った『暮春記』を引いて、私はこう書いた。「谺」にも影を引いている出来事であろうと思う。再掲する。
「昼の月」と同じく第1詩集『測量船』に収められた「谺」もまた、幼い日に養子に出されたときの、深層の記憶が書かせている詩だと思う。
6歳の年齢での養子縁組みの顛末は、その際の父のことばを、達治35歳での執筆による『暮春記』に綴っていて、その心理を測り見る術はあるが、奇妙に思うのは、母親の方はこの件につき何と言い、どう思っていたのか記述がなく、その思いが伺えないことである。
戦前の事で、戸主の一存ですべてが決まり、母親は黙って従っていたと考えるしかないのかとも思うが、達治の随筆や座談を読んでも、母親が達治の養子行きについて断固拒んだり、あるいはたいへん悲しんでいた様子を感じ取ることは出来ない。すんなりと父の考えが通ったと考えるしかないようなのだ。
しかし、幼児の思いを想像してみれば、達治が書いているように本当に自分から行きたいと言ったとしても、引き留めてくれる母親の愛を心の底では望むのが、自然の情というものではないか。自分を愛し守ってくれるべき存在であるはずの母親の、養子行きに対する抵抗がないままに異郷に行かされた事実が、深い悲しみとして達治に宿ったのではないだろうか。『暮春記』に書かれた追憶の中の母の様子はこういうものである。
6歳にしてのこの虚無感は異様に感じられる。だが雑誌に発表しただけで、その後『暮春記』をどこにも収録せず、まるで読まれることを拒んだかのような達治の思いを想像すれば、自分では整理しかねている養子行きを肯った心情を、あえて作品化してみもたものの、やはり後追いの自らへの言い聞かせに過ぎないという嫌悪を覚えたせいではないだろうか。
しかし、「谺」の中の「夕暮に浮ぶ白い道のうへを、その遠くへ彼は高い声で母を呼んでゐた」という場面は、養子先の異郷の地舞鶴に行って味わった里心によって、大坂にいる母を追慕したであろう情景そのものと考えるのが、最もふさわしいと思う。
この記事、続きは 後編とします
令和6年5月 瀬戸風 凪
setokaze nagi