ワタクシ流☆絵解き館その268―小林千古、見捨てられた絵「誘惑」の痛烈な問い②。
明治40年の東京府勧業博覧会。当時の実力画家であり、作品も100号サイズという力作ながら、入賞しなかった小林千古の出品作「誘惑」は、その後おそらく千古の出身地 ( 現広島県廿日市市 ) の人に請われたのであろう、地元の地御前神社に納められ、長年その価値も尊重されず掛け晒されて、すっかり色と輝きを失ってしまった。実物は未見なのだが、画像からその傷みぶりがわかる。
繰り返しになるが、小林千古はその後結核を患い、明治44年 ( 享年41歳 ) に没した。
東京府勧業博覧会後の発展がなかったので、画家の価値が美術史的に取り上げられることもなく、以後戦後しばらくまで、その名は埋もれていた。美術史的に取り上げられるようになった今日においても、発掘され公けに出ている作品は極めて少ない。
上の事情が「見捨てられた絵」とタイトルに用いた所以だ。前回は、下に掲げるネット記事「廿日市事後全市民センター」の小林千古「誘惑」紹介の記述、
をもとにした上で一歩進めて、目隠しの女性 ( 日本 ) を滅亡へと誘う悪魔に、ヨーロッパ列強ではなく、アメリカ合衆国を暗示しているかもしれないと、「誘惑」にこめられた寓意を解釈したのだが、今回の私の推測は、その言葉を超えて、さらに千古の内心を探ってゆく。
もう一度前回の解釈に、以下を付け加える。
実際、日露戦争の終結の仲介をしたアメリカ合衆国には、太平洋をいちはやく勢力範囲にしておきたい思惑があり、1898年 ( 明治31年 ) には、ハワイ王国を強引に併合している。大国ロシアが朝鮮半島に勢力を張るのを防ぐ意思が、日露戦争の終結の仲介をさせ、ロシアに敗北を認めさせる働きの根本にあったというのは確かなことだろう。
千古は、1899年ハワイに渡り、1900年までホノルルにいた。まさに、アメリカ合衆国のハワイ併合という時流に乗ったハワイ渡航と言えるだろう。それだけに、弱い者が負ける政治の現実を、強引な統治を進める為政者の姿から、いやおうなく見せつけられたと言えるだろう。
千古自身は、アメリカ本土から来た絵描きというステータスを得ていた半アメリカ人であったから、極貧の生活ではなったけれど、当時のハワイにおいて移民であった日本人がどういう扱いを受けているかを日々見聞し、決していい感情は持たなかったはずである。
当時の日本の移民たちを語る文章を下に引く。
ここから、それとは違った見方を述べる。
社会批評の精神が、「誘惑」の核心であることは揺るぎない。しかし、日本対西洋の関係の寓意という見方でいいのか、千古の創作の精神から考えてみる必要もあるのではないか、という疑念が湧いた。
そこで画像を虚心に見つめ直すと、私の目に最も止まるのは娘の和服である。明治40年には、和服そのものはごく一般的な装いではあったが、娘の和服は庶民の普段着には見えない。絵が退色しているのではっきりと見えないのだが、どうやら晴着か、社会的な上層部の女性の召し物のようで、帯もいいものを締めているように見える。
一般的なふだん着には、この絵に見るような、あでやかな模様はなく、縞柄か無地であっただろう。日本に滞在した画家、英国人チャールズ・ワーグマンが、明治時代の初め頃描いた「若い女の肖像」という絵を参考に下に掲げる。
これまで解釈したように、娘の姿に日本という国家を寓意しているのなら、晴着として描く必要があったのか、と思える。
さらに画像を見つめ続けるうちに、女衒 ( ぜげん ) という言葉が浮かんで来た。娼婦にするために若い女性を人身売買する ー その仲介を生業とする者をいう名称だ。芸妓の装いのような服を着せられて、女衒の手で売られてゆく娘、という図がこの絵の寓意と思えて来た。
そういう思いになったのは、移民史の書物を読んでから、千古がハワイで見たであろう日本人移民の実態を考えたからである。アメリカ合衆国の圧政を見た千古は、同時に、日本人の手により売られ連れて来られた貧家の娘たちが、その日本人によって使役されていた実態も知っていたはずなのだ。
下に掲げた回想文は、1900年 ( 明治33年 ) 頃までの、日本人移民史上「暗黒時代」と呼ばれた社会の世相を述べている。この頃の日本人娼婦は約200人、 娼婦のひもである破落漢 ( ごろつき ) は300人ほどいたと、この悪弊を危ぶみ矯風事業に取り組んだ人が回想している。
( 相賀渓芳著 『五十年間のハワイ回顧』)
上に述べたことをさらに深めて考えれば、ヨーロッパ列強あるいはアメリカ合衆国の寓意と見た悪魔は、実はハワイにおいて目の当たりに見た悪辣な日本人博徒を示しているのかもしれない。同胞の所業であるゆえに、千古の憂いはなおさら苦いものであっただろう。
絵の中の悪魔が西洋人風な顔立ちなのは、日本人の顔に描くと、一瞥で女衒を連想させることを、千古はよくわかっていたからだろう。その描き方ではさすがに展覧会出品作としては、露骨過ぎて鑑賞者の心に荒波を立てる。
欧米列強と未だ盤石の力を持たない日本の関係、と表向きは装うための、西洋人風な悪魔の顔立ちとも推し量れる。
悪魔は、実は千古が見たハワイ移民社会の闇、すなわち近代化したとは表向きにしか過ぎない日本の底辺を暗示しているのか ー そう思うに至ったもう一つの理由は、1907年の「誘惑」に先立ち、1905年の白馬会の第10回展に出品した大作「中道」とのつながりを強く感じたからでもある。
ハワイ移民社会の闇を念頭に置きながら、どこまでも悪くなれる人間の悲惨や、そこにたやすく落ちてしまう人間という存在の愚かさ、卑小さに思いを深めているのである。
「中道」「誘惑」という二大作は、当時の画家たちがこぞって飛びついた画風の潮流 ( 印象派風描法への傾倒など ) や、日露戦争後の、国民的でかつ表層的な興奮に拘泥することなく、苦学して画家となり、その根本に仏教への深い信仰心を持っていたという千古の人生観を押し出した、筋金入りの作品なのである。それが気づかれていない。
以下、続編とします。どうぞお付き合いください。
令和7年1月 瀬戸風 凪
setokaze nagi